Wasei Salonの中で定期的に開催されているNHK出版『学びのきほん』シリーズの読書会。
次回開催される読書会に合わせて、最近発売された新刊『学びのきほん 三大一神教のつながりをよむ』を読みました。
https://wasei.salon/events/22a2e21d1d9e
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大一神教についてのお話なので、なかなか日本人には当事者意識持ちにくい話だなと思いながら読み進めていたけれど、最後の章が、ものすごく意外な内容で非常に良かったです。
それがどんな話だったのかと言えば、「排他主義と包括主義と多元主義」の違いについてです。
今日はこの部分だけでもみなさんにご紹介したいなあと思ったので、その内容について言及しつつ、そこから自分なりに考えたことも合わせて書いてみたいなと思います。
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この本の最終章は、「宗教間で対話をするということ」という章になります。この章の中で「排他主義と包括主義と多元主義」の違いについて語られてありました。
知っているひとも多いとは思いつつ、ざっくりとそれぞれの違いをAIにまとめてもらうと、
排他主義:自分(自集団)の立場・信条だけが唯一正しく、他は誤りとして認めない態度。
包括主義:自分の立場が最も完全だが、他の立場にも部分的な真理や価値が含まれると見る態度。
多元主義:複数の立場が原理的に並立し得ると捉え、相互の正統性を対等に認める態度。よく言われる言葉で言えば、「全員が同じ山の頂上を目指していて、その登り方が違うだけ」という言葉の意味合いに似ている。
で、こうやって改めてまとめてみると、多くの人にとって「排他主義」が一番最悪な態度であって、「多元主義」が一番マシだと思われるかもしれないけれど、実はそうカンタンな話じゃないと本書の中で書かれてあります。
多元主義には、多元主義なりの問題があるのだと。
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では、多元主義の何が問題なのか。
現代を代表するプロテスタントの神学者、ユルゲン・モルトマンという人物の主張が紹介されながら、以下のようなお話が書かれていました。
さっそく、本書から少し引用してみたいと思います。
たとえば、イスラム教の信仰を有している人が、「キリスト教はイエスを重視しているようだが、イスラム教におけるイエスの理解とはずいぶん違うようだ。どういうことなのか、一度キリスト教徒の人と会ってきちんと話がしてみたい」と考えるとします。そして、いよいよキリスト教の信仰を有する人と会って話ができる状況が整った。
その会話の初めにキリスト教の人が、「イエスが神的な存在だとか、そういう話にはそれほどこだわる必要はないのです。やはり重要なのは、イエス自身が説いているように『あなたと同じようにあなたの隣人を愛しなさい』という普遍的な隣人愛の教えです」と言ったとしたらどうでしょうか。話をしに行ったイスラム教徒は非常にがっかりするのではないでしょうか。
つまり、モルトマンの主張を通して著者がここで主張しているのは、対話では、お互いの『違い』を簡単に捨て去ってしまうのではなく、むしろ自らのアイデンティティに徹底的にこだわることが必要ではないか、ということです。
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これは、目からウロコが落ちるようなお話ですよね。
自分がこれまで漠然と感じていた違和感を、見事に言語化してもらったような気持ちになりました。
「人それぞれだから、折り合えるところだけを、折り合おう」という態度で最初から対話に臨む人は多い。
でもそれって、形式的には対話のようでいて、実はただのすれ違いなんじゃないか。そうじゃなくて、逆に、お互いの“濃い部分”をぶつけ合ってみる。
本書の中で著者も主張しているように、本当の対話の出発点があるとすれば、それは互いのアイデンティティの濃い部分を捨てて行うものではなく、お互いに濃い部分を認め合いながら、共通点を見出したり、共通点でなくても通じ合うものを見出したりする、そのような行為ではないかということです。
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AI時代に、これからの人間の役割は、この濃い部分の主張を、両者しっかりと恐れずに行うこと。
そして、それを受け入れ合う器としての役割を持つこと。
第三者のファシリテーション的な立場のひとや、集団としての場やコミュニティが大切な理由も、この緩衝材としての役割があるからなんだと思います。
それぞれの「濃い部分」を恐れずに提示し、受け止め、そして時には緩衝材となるファシリテーターやコミュニティの存在を借りながら、真剣にぶつかり合い、折り合いをつけていくこと。
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で、身も蓋もないけれど、そうやって折り合いをつけようとするときに、仲裁役の「年齢」、もしくは仲裁する場やコミュニティの「年齢幅」という要素って。実はものすごく大事だなと思ったんですよね。
いつもジブリの喩えで申し訳ないのですが、『風の谷のナウシカ』の中で、ユパ様がナウシカとトルメキア軍の兵士の剣、両方を自分の腕に受けて「双方動くな!」と事をおさめたあの感じ。
あれとまったく同じようなシーンが『もののけ姫』の中にも出てきます。アシタカが、サンの剣とエボシ御前の剣を同時に受けるシーンです。
でも、こうやって対比しながら思い出してもらえるとより鮮明にわかりやすくなると思うのですが、やっぱりアシタカはまだ「若い」と思うんですよね。
だからアシタカは、あのまま気絶したサンを抱えて集落を出るしかなかった。
ユパ様ぐらいがきっとちょうどいい。やっぱり仲裁には「ある程度の年齢」や「人生経験」が必要なんだなと実感しています。
子ども同士が思いっきり喧嘩しても、先生が仲裁に入ることによって、その場の事がおさまり、子どもたちの友情もより深まるように。
年齢が上の人がただまとめ役というだけでなく、場全体に「こういうこともあるよね」と、時間の層のようなものを持ち込んでくれる。そうすると、その場に一瞬だけ過去と未来の文脈が生まれて、対話に奥行きが出てくるのだと思います。
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僕がこのWasei Salonを始めたころ、まだギリギリ20代で自分の中にハッキリと若さが残っていた。
だからわざわざ最初の初期メンバーの中にはオーバーエイジ枠という形で、自分よりも年齢が上の方々にも参加をしてもらうようにお願いしました。
そして今は、自分自身の中からいい感じに若さも抜けてきて、その折り合いをつけられるぐらいの仲裁役を担えるようになってきたような気がします。
良くも悪くも、若さからくる血気盛んな刃が自分に刺さったところで、安心立命の境地でいられるようにもなった。
だからこそ、Wasei Salon自体の年齢幅も、それに比例するように広がっている。それが本当に嬉しいし、ありがたいことだなあと思います。
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この点、いま世の中のコンテンツは、Netflixでもyoutubeでもリアリティショーやオーディション系番組が空前のブームです。
て、あのような番組を消費することは、果たして良いのか問題はずっと付きまとう。そして、僕もどちらかと言えば、他人の人生をエンタメ的に消費しているような感じがして苦手です。
でも、あれを好き好んでみているひとたちも、結局は「ぶつかり合い」のプロセスに惹かれている証拠なのかもしれません。
ワンピースやドラゴンボールや、スラムダンクのような本気でぶつかりあって「仲間」を作っていく過程の「物語」を楽しんでいるんだと思えば、なんだか納得感があります。
逆に言うと、日本人はもともとそうやって、ぶつかりあって涙を流し、その中で本当にお互いがわかりあって、結果的に仲間になっていくという物語が、ものすごく好きなんだろうなと。
それもまさに今日語ってきたような話そのものでもあると思うのです。
「昨日の敵は、今日の友」という言葉が指し示すように、本当にそういうことなんでしょうね。
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だとしたら、何でもかんでもすぐに多元主義的に折り合うのではなく、包括主義同士ぐらいのレベル感でぶつかってみて、その後に、折り合いをつけることが大事なんだろうなと思います。
いったん思いっきり批評をしてみないと「事そのもの」は見えてこないというあの話にも非常によく似ている。
あと「真の共同性は、目的性の追求の中からしか生まれてこない」というあの話にも、非常によく似ている。
だから最初から落とし所ありきの手加減をした対話じゃなくて、お互いに深く理解し合うためにこそ、ある程度の心理的安全性が担保された場においては、お互いの「濃い部分」を持ち寄って真正面から提示し合ってみること。
さもないと最初から諦めて「議論してもどうせわかりあえないから、相手の立場さえテキトーに保証しておけばそれで良いんでしょ」ということにもなりかねないわけですから。
それだと、僕たちが求めている本当の意味での「真の共同性」には、いつまで経ってもたどり着かない。
むしろ逆に、そんな消化試合みたいなものが続いてしまうことが、人間を一番堕落させて、気づけば無意識の諦めや絶望を生んでしまう。
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そのためにも、世代間を超えて対話ができる空間、お互いがお互いの緩衝材となったり、血気盛んな主張をしたりと、それぞれの世代や立場、個性が頻繁にスイッチをしながら循環していけるコミュニティをつくることが、いま本当に大事だなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。