今年の大河ドラマは、江戸時代に活躍した蔦屋重三郎を主人公にした『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』が放送されています。

この大河ドラマの放送に合わせて、NHKでも関連番組として江戸の町人文化にまつわる歴史番組やドキュメンタリー番組が今月に入ってから既に数多く放送されています。

最近観た、『南総里見八犬伝』を描いた滝沢馬琴の『英雄たちの選択』なんかも、非常におもしろかったです。

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で、こういうときには、時流に乗らないのはもったいないなあと思っています。

これは冒頭からすこし余談になってしまうのですが、そこには、良くも悪くも、集合的無意識のようなものが働きやすい。

たとえば、既にNHKスペシャルの「ジャポニズム」特集から、マンガやアニメの海外進出にまた光が当たり始めている。

こういうときは、優れた番組によってコンテキストや文脈が共有されやすいから、「共通の問い」のようなものが立ち上がりやすいということでもあるのでしょうね。

参加者全員が書籍を読み終えて参加する読書会みたいな形で、自分ごとになりやすいわけです。

NHKの大河ドラマや朝ドラなどは、このあたりの波及効果が未だに凄まじいなあと思います。

昨年の大河ドラマ『光る君へ』でも、うまくは言えないけれど、世の中がどこか貴族文化(女も男も、さめざめと泣いて見せる)みたいなところにすり寄る感じはあったよなあと。

ということで、今年もきっとご多分に漏れず、似たような現象が起きることは間違いない。これは好機と思い、最近は江戸文化にまつわる本を積極的に読んでみようと思っているタイミングが来ていたりします。

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で、この点、以前からずっと読もうと思って積読状態にしてあった養老孟司さんと徳川宗家第18代当主・徳川恒孝(つねなり)さんの対談本『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』を読みました。

この本が、とってもおもしろかった。

今日は、この本の中で紹介されていた「談合」の話を、このブログでご紹介してみたいと思います。

江戸時代と現代の違いみたいなものを、当時の「談合」という具体的な話で言い表してくれているなあと思います。

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まず、本書の中で、養老さんは社会のルールにしろ、言葉の問題にしろ、いまの社会は「何が真っ当な話なのか」を理解できなくなっていると語ります。

その文脈の中で「談合」の話が語られてあり、これが非常にわかりやすい。

以下で本書から少し引用してみたいと思います。

”そのよい例が「談合」です。最近は「談合はフェアではない」という批判が聞こえますが、日本では江戸の昔から、「話し合い」という名の談合を繰り返してきました。そのルールが、じつに複雑で面白い。
たとえば、ある組合が集まって競りを行なうとします。競りの参加者たちのつけた値段が座長のもとに集められますが、最高額をつけた人には落札させない。二番目に高い値段をつけた参加者が商品を落札し、落札額は必ず公開されます。すると今度は、それでも手に入れたいという人と、落札者とのあいだで話し合いがもたれる仕組みだったそうです。”


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このような仕組みの上で、もしこれが一番高い値段をつけた人が落札すれば「お金さえあれば何でも買える」ということになり、道義上、収まりがつかなくなってしまう、と。

業界や社会全体のことを考えながら、親分の権限で手心を加えたという歴史背景のようでした。

つまり、売り手、買い手、そして世間が納得する商売という意味で、これは江戸時代の「三方良し」に通じるところがありますと、養老さんは本書の中で語られていましたが、僕もこの話を読みながら、なるほどなあと唸ってしまいました。

そして実際に、その通りだったんだろうなあと強く思います。

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現代は、国際基準に照らし合わせて、単純に「談合は悪だ」と批判の対象となり、それをメディアが無責任に面白がって報じて、表面的な取り組みだけが断罪されてしまう。

その結果、古い慣習は見事に捨て去られてしまうわけですよね。

でも、本当は、実際に日本人のほうが国際基準よりも、ある意味では賢い選択をしていた可能性もあったわけですよね。

もちろん、ここでくれぐれも誤解しないでいただきたいことは、だから短絡的に「談合しろ」と言いたいわけでは決してないです。

そうじゃなくて、「何が真っ当な話なのか」を改めて考えたいよね、ということなんです。

これも、いつも語っている「指月の譬え」そのものだと僕は思います。

昔の手段や方法、その構造、つまり指は、ちゃんと月それ自体を指さしてくれていた。でも、そこに外国が攻め込んできて、指のほうだけをみて批判をしてきたわけです。

そして、マスメディアを中心にそれを面白がって報じて、世論を操作し、批判されたり捕まったりしてしまった。

確かにその指を捨て去る事自体は、グローバル社会の一員になるためには必要な選択だったのかもしれないけれど、その中で本当に追い求めていた「真っ当な目的」までを捨て去ってしまう必要はないよなあと思います。

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それだとあまりにもったいないなあと思うんですよね。

せっかく何百年もかけて太平の世を築き、そこに実際に現実社会で通用するような価値観や、方法を提示してくれていた歴史が日本にはあるわけですから。

だったら、やっぱり江戸時代の人々が、指さしていた「月」とは一体何だったのか。

それを現代の常識や通説みたいなものを一旦横に置いておいて、改めて考えてみること、それが大事だなあと思わされます。

そして、現代社会のルールや基準の中で、それを再現するためにはどうすれば良いのかを考えたい。

このあたりが養老さんの語る「何が真っ当なことなのか」ということを考えてみるということの本質だと思います。

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また、養老さんは先ほどの文章に続けて、以下のようにも警鐘を鳴らしてくれています。

再び本書から引用してみたいと思います。

”このような日本の「談合」文化は複雑すぎる、つまり上手にできすぎているので、外国人には理解できなかった。アメリカが求める規制緩和も、本音は「うちの企業が入れないので談合をするな」という話です。     
われわれ日本人の目からイギリスのオークションを見ると、「ずいぶん乱暴なことをしている」という印象をもちます。競売でライバルを黙らせるため、ひたすら札束を張りつづけるというオークションは、一握りの人しか勝者になれません。それでは「三方良し」にならない。     
こういう社会では何か問題が起きそうだ、ということは、直感で何となくおわかりでしょう。庶民が明日の飯にも事欠くのに、あるところではお金をドブに捨てるように費しているのだから、どこかで必ず軋轢が生じます。”


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きっといま大切なことは、昔は当たり前のように大切にされていた価値観を日本人自身が掘り返して、その奥に存在していた「真っ当さ」みたいなものをどうやって実践するのかを考えること。

さらに、それをどのようにして世界に対しても発信していけるのか、を考えることなんだろうなあと思います。

今日ご紹介した「談合」の話はその氷山の一角に過ぎなくて、このような話が江戸時代、とくに町人文化の中にはきっとごまんとある。

その失われてしまっている視座のようなものを参考にしながら、現代に少しずつ再興し、コミュニティとして実践していきたいなあと僕なんかは思います。

人間にとって本来大切なことが、歴史の中には含まれている場合も多いですし、現代人こそ参考にするべき点が多数含まれていると思うから。

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今年も、大河ドラマが好評になればなるほど、年末に向けてさらにこの気運は盛り上がっていくはずです。

実際、これから「100分de名著」や「歴史探偵」など、他のNHKの関連番組でも江戸時代の町人文化の話題が盛んになってくるはずです。

それを観た人々がSNSでも盛り上がれば、自然発生的にyoutubeでも似たようなコンテンツもドンドン公開されていく。

そうすると、より一層、国民全体が並列化されたように、集合的無意識のようなものが江戸に向かうはず。

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もちろん、日本の元祖メディア人としての「蔦屋重三郎」がその一番の主役でもあるわけですから「メディアの本質」や「メディアの影響力」それ自体を庶民の手にいかにして取り戻してくのか、という話も絡んでくることは間違いない。今年は選挙もありますからね。

なにはともあれ、今年は、江戸時代の町人文化や元祖メディア人としての蔦屋重三郎関連コンテンツを、1年かけてじっくりと楽しみたいなあと思う。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。