昨日もご紹介した、養老孟司さんと徳川恒孝さんの対談本『江戸の智恵 「三方良し」で日本は復活する』という本。

今日もこの本の中で、個人的にものすごく刺さった話をご紹介しつつ、そこから自分が考えたことについて書いてみたいなと思います。


さて、今日ご紹介したいのは、「身を守る保険としての人間関係」という話です。

これは、昨日のブログでも書いたように、江戸時代から続いていた人間関係の智恵をコミュニティ内において再興することができるだろうなと思える、とても大事な視点だと感じています。

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では、具体的には一体どんなお話なのか。

まず、前提として、戦後、日本では「世間」という人間関係が希薄化し、多くの人が生まれ育った田舎を離れ、都市に移り住むようになりました。

その結果、地縁や血縁といった人間関係を失うことで「煩わしさから解放される」という自由を手に入れられた一方で、「いざというときの助け」も失ってしまっている状況が生まれています。

養老さんは本書の中で、そんな人間関係を「保険」に例え、煩わしさを我慢し、関係を維持することの大切さを説いています。

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この点に関連して、養老さんが鎌倉で家を購入したときの、地元の人間関係が役立ったエピソードを語られてあったので、本書から少し引用してみたいと思います。

”たとえば結婚するとか家を買うとかいった、一生に一度か二度しかしないような選択をするとき、ある種の「保険」が必要になるということです。
東京にマンションを買おうとしても、地縁や血縁が何もない人が欠陥住宅ではない物件を手に入れるには、八方手を尽くして探し回るしかありません。僕は生まれも育ちも鎌倉で、家を買うとき、田舎の有難みをしみじみ感じました。売り手の不動産業者も親の代から知った顔で、警察官を定年退職した人が後を継いでいました。向こうも僕のことを昔から知っている。そうした関係のなかで、よい家が手ごろな価格に下がったとき、僕に物件を売ってくれることになった。”


養老さんは、このエピソードを踏まえて、人間関係の頃わしさが嫌だといって、地縁を切って都会に出てしまった人は、同時に「保険」を捨ててしまっていると言います。

だからこそ、人間関係の煩わしさの裏にあるプラスの意味を、とくに若い人に伝えなければいけない、と。

「人間関係は『保険』で、保険金を得るには掛け金を払いつづけること。だから、多少の煩わしさは我慢しないと保険にはならない」という風に書かれていました。

これは現代を生きる若い人を中心に耳が痛い話だと思う人はかなり多いはず。もちろん僕も、そのひとり。

そして、以前もこのブログの中でご紹介した、養老孟司さんの新刊『人生の壁』の中で紹介されていた「イエ」の話にもとてもよく似ているなあと思いながら僕は読んでいました。


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とはいえ、やっぱり現代は「人間関係の煩わしさ」、そんな負の側面ばかりが強調されがちです。

その結果、多くの人がこの煩わしさから自由になるための手段を求めている。

その反動として、養老さんが指摘するように、東京の高額なマンションや、保険を補うための「商品」が次々と登場しているわけですよね。

ちなみに、この本が出版されたのは2010年であり、今のような東京の不動産価格高騰の前の話です。

たとえば、投資用金融商品のようなものもまさにそうですよね。NISAならまだしも、仮想通貨や個別株、トークンなどが魔法の杖のような言い草で売られていたりもする。

「今のうちに買っておけば、あとから値段が上がるからお得ですよ」と煽られる金融資産の数々。それらはまるで人間関係の煩わしさを回避するための代替品、その保険として、販売されているようにさえ感じられます。

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これはちょっと本題から逸れるのですが、最近よく思うのは、現代のSNS時代の本当のカモというのは「靴磨きの少年」たちではないということなんです。

ちなみにこの「靴磨きの少年」とは、株式の一番高値のタイミングでカモにされる情弱を指していています。

「街の中の靴磨きの少年が株式の話をし始めたらそこが天井の合図だ」という寓話から来ているわけなんですが、きっと今は靴磨きの少年が画面の向こうで無邪気に靴を磨いていることが見えてしまうこと、そんな水族館の魚と観客のような構図があることのほうが問題なんだろうなと。

具体的には、YouTubeやインスタ、TikTokなど「自分よりも、間違いなく後に入ってくるだろう」と思われる頭が悪そうなひとたちの姿を見て「よし、今のうちに買っておこう」という判断をする人々が多数存在すること。

実際に自分のスマホ上には、そんな自分よりもあとから入ってきそうな魚が画面越しで泳いでいるように見えるわけですからね。

でも実際には、そこで投資判断をする人たちこそが、売り手にとっての真のターゲット。つまりカモを取ろうとする猟師が、カモになっていることに気づかないといけない。これはまさに「カモのマトリョーシカ構造」です。

煽っている売り手というのは、自分自身が損をしないように先に売り抜けるか、手数料ビジネスで稼ぐか、そのような絶対に損をしない方法で利益を確保する。

その結果、このロジックにはまり込んでいる「自称・賢い人たち」が一番のカモに成り下がるわけです。

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でも、そうやって誰かが誰かをカモにしようとすること自体が構造としては、どこかで破綻することは明白です。

もちろん、靴磨きの少年たちが本当に入ってきた日には大暴落だって免れない。

そうやって、バブルは起きて、必ず弾けることも宿命付けられているわけです。

そしてむしろ、共同体やコミュニティは本来、共同体内でその知性が劣った成員たちをカモにしてしまわないための効果、つまり、この「カモのマトリョーシカ構造」を抑制するものとして働いていたわけですよね。

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だから、本当に大事なことは、「いかに自らを満足させるか」という話に終始し過ぎないことのような気がしています。

もっと端的に言えば「どうやって自分が利得を得ようかばかりを考えるな」ということです。

言い換えると、他者との間に構築されている人間関係を、いかに自分の保険にするか、かけた保険金に見合った対価を受け取れるのか、その交換的な視点に立脚するのではない。

そうじゃなくて、もっと逆の視点「どうすれば自分自身が、他者の保険的な存在になれるのか」を真剣に考えたほうがいいんだろうなあと。

つまり、その保険の受益者ではなくて、供与者になること。

それが実際に実現して循環する形で立ちあらわれてくるためにはどうすればいいのかを真剣に考えることのほうが、圧倒的に大事なことだと僕は思います。

なぜなら、そうやって考えてひとりひとりが行動をし、それぞれの納得感があれば、結果的に保険と同様の効果が、そこに立ちあらわれてくるわけですから。

そうすれば時や順番がやって来れば、勝手に自らも同様にその共同体からの受益者になれる。

いかにして、発想の転換をして、この視点気づくことができるかが、今問われていると思うんですよね。

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養老さんの話で言えば、コミュニティのおかげで「割安な家が鎌倉で手に入ること」を考えるのではなく、どうすれば私自身が、相手のことを信頼して、その相手に対して、割安な鎌倉の家を提供したいと能動的に思い実行できるようになるかどうか、の方が重要なんですよね。

それがまさに、アドラーの同体感覚とか貢献感とかの話にも通じるなと思います。

もちろん、このときには決して、過度に共同体に期待しすぎて他者に依存し過ぎるわけでもなく、他者と過度に距離を置いて遠ざけ過ぎるわけでもなく、純粋な「お先にどうぞの精神」で。

適度な距離感で付き合うことが大事なのでしょうね。

譲り合っていれば、足りなくなることはないはずですから。

その中では多少の厄介事だってはらむわけだけれども、それは保険と一緒で必要経費の一部。お互いにそう思い合えることが大事だよね、ということだと思います。

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とはいえ、今更、江戸時代〜戦前の日本までのような地域密着型の「共同体」を復興することはできない。あまりにもそれは現代人にとっては重たすぎる。

だとすれば、無駄なコストをカットをした「ネット保険」なんかと同様に、自分たちにとっての納得感のある、ネットを起点としたコミュニティを作っていくことにこそ意味があるんだろうなあと思っています。

伝統的な地域共同体をそのまま復興することはむずかしいとしても、そのエッセンスを取り入れた新しいコミュニティモデルを考えることは、現代において意義深い試みであるはず。

それを考えていくことが、現代を生きている僕らの世代に任された責務なんだろうなあと感じています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。