ローカルを訪れると、「これはまるで日本の縮図じゃないか」と思うような課題や、地域の問題と向き合っている方々と出会う機会がとても多いです。

そんな問題について何度も直接お話を聞かせてもらっていると、次第に他人事だとは思えなくなってくる。

また、これと似たような状況として、社会的なマイノリティと呼ばれるような人々が置かれている状況も「これは、社会の縮図だな」と思わされることは非常に多いです。

この点、最近観た映画の中で特に印象的だったのは、『流浪の月』や『ベイビー・ブローカー』『PLAN 75』などです。(こちらはすべてフィクションですが)

ーーー

この点、都市圏に暮らすマジョリティ側のひとびとは、ローカルで起きていることも社会的マイノリティの人々が置かれている状況も、「どれも、自分には全く関係ないことだ」と思うはずです。

だから、大抵のひとはそのまえを素通りしていきます。

そんなことよりも、いま自分の目の前に存在している仕事や、私が社会的に成功することのほうが重要だと感じてしまうから。

でも、それらは決して他人事ではないどころか、いま自分が置かれている世界の状況を理解するために、これほどまでに優良な学びの事例ってほかにはないと思うのです。

なぜなら、そこには必ず似たような社会の力学が働いているから。

ーーー

日本の社会や組織は、基本的には入れ子構造になっています。ヒエラルキー構造が存在するだけで、同じような集団がずっと連なっているだけ。

そこに似たような価値観を持ち合わせた日本人という駒があてがわれているわけだから、起こる問題や課題も同じになるのは当然といえば当然のことだと思います。

ただ、大きな組織の全体像を眺めたときには、その構造が大きくて複雑になりすぎていて、それぞれの問題に気づけないようになっているだけで。

その末端で何か大きな問題が起きているということは、明日は我が身だなと思えるようになるわけです。

ーーー

いや、ここにもひとつ大きな落とし穴が存在していますね。

正確に言えば、明日は我が身ではなく、既にその問題が発生している構造の中に必ず私も存在している。顕在化しているローカルやマイノリティのひとたちの問題は、その力学の歪みを気づかせてくれる存在なのです。

私がとらわれている大きな構造、それ自体を理解させてくれる鏡のような存在と言い換えてもいいのかもしれません。

最近だと「宗教2世」の問題なんかもそう。ここは完全にマトリョーシカみたいになっているなあと思うのです。

ーーー

自分には直接的な影響や害悪が発生しているとは感じていない、その一定の距離感が存在していると思えるうちに、自らの頭で考えておくことがいかに重要なことなのか。

そのタイミングが実際に訪れて、渦中にいるときには絶対に考えることができなくなっているはずだからです。

それは今のウクライナ情勢や台湾情勢なんかを見ていても、本当に強く思います。

ーーー

対岸の火事だと感じているうちから、それは対岸ではなく、いま自分が立っている側の岸で起きていることであり、「これは自分の置かれている状況と全く同じではないか」と、その相似形を見つけておくこと。

これは「歴史」を学ぶことと同じぐらい重要なことだと思います。

たとえば、歴史的な事件であれば「水俣病」なんかは非常にわかりやすいですよね。

あれは完全に当時の日本の縮図であり、当時の社会状況を理解する上で非常に学びになる点が多々あるように思います。そしてそれと関連した問題は、現代にも連綿と引き継がれているわけですよね。

だから今の私たちにとっても学ぶ価値がある歴史的事実なわけです。映画『MINAMATA』や書籍『苦海浄土』はそれを僕らに強く教えてくれる。

ーーー

ただし、ローカルやマイノリティ方々が直面している社会問題が、「歴史」と大きく異なる点が一つあります。

それは、歴史の場合は直接当事者に話を聞きに行くことはできなくとも、現在に起きている出来事は、その当事者に直接でも間接でも話を伺うことができる、現場を見に行くことができるということ。

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。」 とよく語られますが、いま各所で起こっている諸問題の原因や、その敗因の構造を知っておくことは非常に重要なことだと感じます。

いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。