ここ数年、本について他者と対話する機会が一気に増えました。

そうすると、自分がものすごくおもしろいと思った本が、つまらないと感じるタイプのひとがいることを知ります。

「この違いは一体何なんだろう?」とずっと不思議だったので、今日はこの問いに対して自分なりの仮説を少しだけこのブログにも書いてみたいと思います。

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この点、おもしろさを感じるポイントは、各人が本に対して求めることの違いの中に存在しているようです。

ひとつは、本や物語に明確な「答え」を求めるタイプのひとたち。

それまで自分の中でモヤモヤしていたり、曖昧模糊としていたりするものに対して、新たな名前をあてがってくれるタイプの本を好むひとたち。読みながら「それな」って思えるやつ。

あとは、似たような考え方として、問いに対しての明確な答えや、これから私が進むべき道を指し示してくれる本を好むタイプのひとたちもいます。

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一方で、答えは一切いらないから、問いだけを与えて欲しいと思っているタイプのひとたちもいる。

どれだけ明快な答えが与えられたとしても、そこに問いが存在しない本はつまらないと感じるひとたちです。

生き抜くための武器を与えてくれるどころか、どう戦うのかさえ全く決まっていない。何のために戦うのかさえも決まっていない。

「なぜひとは戦うのか」という問いだけを与えられて、気づいたらそんな荒野にひとり投げ出されている状況に、おもしろさを感じるタイプのひともいます。(僕は最近ここに属している)

一方で、答えを求めているタイプのひとたちは、そのような本と出会うと混乱してしまうようです。

「えっ、それで結局どうすればいいの?」と。その混乱する状況が、この本はつまらないなと感じさせる要因らしい。

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もちろんこれらのタイプの違いには、どれかひとつだけ正解があるというわけではありません。(それ自体がひとつの正解を求める心のあらわれでもある)

僕自身も、20代前半ぐらいまでは「いいから、はやく答えを教えろよ」と思っていたタイプの人間でした。

それはそれで、世の中でハックできることが明確に増えていきますし、間違いなくそのハックすることの喜びや快感が存在することも事実です。

参照:自我はいつから芽生えたのか、人生をハックするのをやめた日。

また、書籍や物語と向き合おうとする、その「目的」にもよるかと思います。

たとえば、病気の正体とその治療法が知りたいときに「なぜひとは病にかかるのでしょうか」という問いだけ与えられてもちょっと困りますよね。

(いや、それでも個人的には、その病を患った自分、その意味するところを自分で考えたいから、あえて治療法が端的に書かれている本は望まないかもしれない。それぐらい僕の場合は自分で考えたい)

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つまり、全く同じ本であっても「この本には、答えが書かれていませんでした」とレビューで星1をつけるひともいれば、「この本には答えが書かれていなかったから、自分で考えることができました」と星5をつけるひともいる。

その違いをしっかりと理解しておくことが、非常に重要だなあと思うのです。

いま自分が目のまえで対峙している相手が明快な答えを求めるタイプなのか、問いを求めるタイプなのか、それを一瞬で見抜くことが大事。

言い換えれば、自由から逃走したいのか、それでも自由を謳歌したいタイプなのか。この不一致をなくしていくことが本当に重要だなあと思います。

そして、自分の趣味や趣向を決して相手に押し付けないこと。

甘い食べ物が好きな人に辛いものを出しても絶対に喜ばれないですし、辛い食べ物が好きなタイプのひとに甘いものを出しても絶対に喜ばれないのと全く同じです。

いつもこのブログを読んでくださっている方にとって今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。