先日、「PLAN 75」という映画を観ました。
「PLAN75」は、75歳以上が自らの生死を選択できる「プラン75」という架空の制度を媒介にして「生きる」や「安楽死」というテーマを全世代に問いかけてくる映画です。
この映画を観終わってから、僕はしばらく放心状態になったあと、ふと頭の中によぎったのは、もしヒトラーが現代に蘇り、当時の失敗を反省し尽くした結果、次につくった制度というのはきっと「プラン75」のような仕組みだったのではないかということ。
国家にとって不要であり害悪だと判定した人間を、強制的に収容所に送って虐殺したから、国際世論から大批判を受けてしまったわけだけれども、もし彼ら(ユダヤ人)が自ら進んで、自分たちの意志で死んでもらう仕組みになっていたら、国際世論は文句を言うことはできなかったはずだから。
現代に蘇ったヒトラーは、きっとマスメディアや広告代理店と共に、そのための「美しいストーリー」を創作し、そんなPR(プロパガンダ)をありとあらゆる手段を通じて行い、本人の意志でこの世から去っていくように仕向けたはずです。
「そんな世論や社会の空気を、意図的に醸成することなんて果たして可能なのか?」と思うかもしれないですが、この映画を観ると「それは間違いなく可能である」と確信してしまいます。
社会全体に向けて、ある種の洗脳のようなことを行いながら共同幻想をつくりだし、本人が自発的に「安楽死」を望むようにまわりからジワジワと固めていくことは十分に可能なんだろうなあと。
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その証拠に、この映画を受けて「プラン75のような社会制度が、実際にあったらいいのに!」という声が現実社会でも結構な割合で存在しているらしいのです。
仮に百歩譲って、それが「国民の総意」であるということであれば、僕は異論はありません。それが民主主義という社会システムのルールだと思うから。
こちらも民主主義の適正な手続きを通じて、粛々と抗っていきたいと思う。
ただ、たとえそのような適正手続に則って「安楽死」が合法化されたとしても「これから生まれてくるこどもたちに、殺人の加担をさせていいのか」ということは一度考えてみて欲しいなあと思います。
つまり「若いひとをアイヒマンにしてはいけない、それだけは絶対に間違っている」ということをここで僕は主張したいのです。
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アイヒマンとは、ナチス政権下でユダヤ人を強制収容所に輸送した責任者のひとりです。
本作「PLAN 75」の中でも、このアイヒマンのような役回りを演じる若者がふたり出てきます。
ひとりは、プラン75の申請窓口を担当する役場職員・岡部ヒロム。もうひとりは、そのプラン75のコールセンターで働くスタッフ・成宮瑶子です。
どんな形であれ、彼らのような若いひとたちに殺人に加担させることは、僕は間違っていると思いました。
彼らは、自分が生まれる以前に形成された社会の当たりまえ(法律)に忠実なだけであって、「無思想性」に陥ってしまうことはある意味で仕方のないことだと思うから。
それは僕らの世代にとって、生まれる前から存在している「死刑」という制度を無条件で受け入れてしまっていることにも非常によく似ている。(ちなみに僕は死刑制度にも反対です)
映画の中では、自らの叔父や、自分がオペレーションを対応した女性がこの制度を通じて死んでいくことに対して違和感を覚えて、「顔」のある個人と対峙して初めて彼らは自分がやっていることの異様さに気づいていく、そんなシーンが描かれているのが唯一の救いです。
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目の前で起きている異様な出来事に、誰も違和感を感じさせない世界をつくることは本当に簡単なことなのだと思います。
制度と仕組みさえ完成してしまえば、あとはベルトコンベアのように淡々と流れていく。でも、本当にそんな社会を次世代に残していいのかなと強く疑問に思います。
僕には自分の子どもは存在しませんが、町中で遊んでいる子どもたちの姿を見て、そしてこれからこの世界に生まれてくる子どもたちのことを考えて、彼らに殺人行為を加担させるようなことだけは絶対にしたくない。
それがどれだけ本人の意志であったとしても、です。だから僕は安楽死には反対です。
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今日のお話がみなさんにとっても何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。
2022/08/05 12:03