インフルエンサーのような声が大きい人たちの差別的な発言や、社会的弱者を殺傷するような事件が起こるたびに、「弱肉強食、優勝劣敗」のような議論が定期的に巻き起こります。

それに対しての反駁パターンも毎回決まっていて、進化論や生物学的な説明がなされることが一般的なのではないかと思います。

具体的には、社会的弱者の遺伝子が「どのように、この世界において有利になり得るのか?」というお話。

この世界において生物は「適者生存」なのだから、どんな個体がこれからの未来の環境変化において対応できるのかは誰にもわからないのだ、と。

だからこそ、人類はお互いに助け合い「社会性」を発揮して「子孫繁栄」に努めてきたのだ、と。

これは、完璧な答えだと思います。

「自分は科学を信奉していて、リベラルを標榜している知的エリートを自称するひとたち」であれば、この意見に対して決して反論することができない。

だからこそ、ある一定の科学的な知識レベルを持ち合わせた人たちは、自然とそのような発言や行動は控えるようになるのでしょう。

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でも一方で、「だからどうした?そんな何億年単位の話をされたところで、私のこの人生には関係ない」という人たちも一定数存在します。

そんな何千年、何億年も先の地球単位、人類単位の話をされたところで、納得できるわけがないだろう、と。

それよりも、「この私の人生を全うさせろ!私がこの人生を謳歌しようとしているところを邪魔してくれるな」と言いたくなるのでしょう。

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この対立は、ヘーゲルが唱えた弁証法と、キルケゴールの唱えた実存主義の対立の仕方に非常によく似ているなあと感じます。

ヘーゲルの唱えた弁証法では、まずテーゼがあり、それに対するアンチテーゼがあり、両者を掛け合わせてアウフヘーベンすれば、次の時代に向けた新しい進化(進歩)したテーゼがまた生まれてきて、その結果、世界はいつの日か必ず真理に到達するのだ、と。

しかし果たして、それは何年後になるのか?

50年後、100年後?それとも数千年後…?

私が生きているうちならまだしも、私が死んでしまったあとの世界の真理なんかに興味はない。

それよりも、これから100年以内に死ぬことが確実に決まっているこの私の真理が知りたい、それを追い求めたい。

それがキルケゴールが唱えた、実存主義的な考え方だと思います。

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そんな実存主義的な考え方の歯止めになるのは、やはり「宗教的実存」であり、超越的な「神と自己との関係」になっていく。

逆にいえば、ソレ(神のような超越的な存在)しかないようにも思うのです。

どれだけ科学的に「適者生存」の議論をしてみても、ある一定の知的エリートにはそれで話が通じても、それが通じない相手には、超越的な神との関係でこの世界を捉えてみてもらうしかない。

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とはいえ、今この時代において、宗教や儒教的な道徳などの復権は、もはや不可能です。

これだけ科学が浸透してしまった世界で、もう誰も神や仏を信じない。

さて、困りました。

この資本主義社会で「弱肉強食」のルールが世界全体のルールとなってしまっているなかで、お互いの「存在価値」を認め合うことは、知的エリートに対してはなんとか合理的に説明できても、「この私の真理」を求めているひとたちには全く話が通じない。

だからこそ「誰にとっても、『この私』にとって納得のいく答え」をなんとか導き出さなければ、いつまで経っても、この議論は何度も何度もこれから繰り返されることになる。そして、悲惨な事件もあとを絶ちません…。

だとすれば、世界全体で「見たいものを変えていくしかない」。

神や仏に変わる、まったく新しい「共同幻想」を共有して、科学を超える新たな倫理観を発見していくしかない。

これからの時代において、それが一体どんなものになるのか。

そんなことばかり考えている今日このごろです。