何か客観的な事実を目の前にしたとき、その事実を「正しく見定める」ことが大切であるという教えは、至るところで語られています。

しかし、そうやって正しく見定めようとすると、人間は往々にしてその客観的な事実に対して、自分の気持ちや心まで同化させてしまいがち。

しかし本来、このふたつの行動は、完全に峻別したほうが良いはずなのです。

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この点、僕はいつも西郷隆盛の母親が幼少期の西郷に言ったとされる言葉を思い出します。

「貧乏は恥ではない。貧乏に負けることが恥なのですよ。」

まさにこの言葉が、そのことを見事に言い表していると思います。

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これは「病(やまい)」と「病気」の違いにも非常によく似ています。

病とは、あくまで身体の状態であって、人間は必ずいつか死ぬと決まっている以上、病それ自体に対しては、客観的な良し悪しを語ることはできないはず。

しかし、その身体の状態に対して「悪」というレッテルを貼り、自らの心や気持ちまで病ませてしまい、同化してしまっている状態に陥ることがある。それが「病気」です。

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もちろん、客観的な事実を見て見ぬふりをすることが、一番ダメなことだと思います。

上述した例で言えば、「貧乏」なのに「貧乏ではない」と言い張ったり、「病」なのに「病ではない」と言い張ったりして目を逸らすのは、どう考えても間違いです。

とはいえ、正しく見定めたうえで、社会一般的な価値観(社会通念)を持ち出して、その価値観が私の価値観だと誤解し、気持ちまで客観的な事実に同化させてしまうのはもっとダメなことだと思います。

しっかりと事実を認識し、客観的に見定めたうえで、決して心や気持ちまでは同化させないこと。

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似たようなことは、これまでも何度か書いてきたことがあります。

自分でも呆れてしまうぐらい同じようなことを書いていますが、本当に今とても大切なことだと思っています。

たとえば、現代においても、「差別されている、だから私は不幸なんだ」というロジックも、本当は全くもってそこに因果関係なんて存在しないはずなのです。

でも、そこに因果関係があると、私たちは勝手に信じてしまい同化してしまっている。(なぜなら世間のみんながそう信じているから)

しかし、当事者の認識次第で「差別されている、でも私は幸せなんだ」とも言えるはずですし、

「差別されている、だからこそ私は幸せなんだ」ということも、本来は全く同列に語れる認識のはなずなのです。

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この点、仏教の教えの中に「諸法実相」という言葉があります。

もののあるがままの姿をみることの重要性を語ってくれている教えです。

まさにこの「諸法実相」という考え方を、今こそ僕自身は大事にしていきたいと思っています。

もちろん、自己の基準を他者に強要することは決してあってはならないことだけれど、(それが一般論からズレていればいるほど)、自分の精神の防波堤は誰もが自分自身で築くことができる。

ネガティブなニュースや言説が、いくらでも氾濫しうる現代の社会構造だからこそ、とても大切なことだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。