昨夜開催されたWasei Salon内のオンラインイベントは、みなさんと一緒に対話しながら「学び」について考えるイベントでした。

今日はそこで得られた気づきを、改めてこのブログにまとめてみたいと思います。

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そもそも、ひとが何か新しいことを学ぶとき、私たちの脳の中では一体何が起きているのかでしょうか。

個人的には養老孟司さんの以下の考え方が、とても気に入っています。

自分が日々実感している身体感覚に、非常に近い気がしているからです。

『ひとはなぜ戦争をするのか (講談社学術文庫)』という本から少し引用してみましょう。

ー引用開始ー

哲学者や数学者がひたすら考えているのも、脳が脳自身の働きに適応しようとしているとも見える。頭のなかで論理的整合性がとれるように、ひたすら自分の脳を変えていこうとする。そう見えなくもない、というより、私はそう思っている。

「わかった」と本当に思ったときの脳は、わかる以前の脳とは違っているはずである。だから何かがわかると、次々にまたわからないことが出てくる。脳が変化し、その脳に「新しい状況」が発生するからである。だから学問研究はやめられない。

自分の脳を変えるという習慣が付くと、いわば中毒を起こす。だからひたすら考え続ける。

ー引用終了ー

このように「学ぶ」とは、意図的に自分の脳を変容させてしまう行為なのだと思います。

言い換えれば、昨日の自分と今日の自分の脳の同一性を、自ら積極的に奪っていく行為だとも言えそう。

つまり、学ぶとは能動的に「別人に生まれ変わろうとする行為」と言えるのかもしれません。

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だからこそ、「あとで学ぼう」は絶対に学ばない。いや「学べない」と言うほうが、きっと正しい。

どうしても僕らは、いつまでも自己に同一性があると信じて疑わないから、何でもかんでも先延ばししてしまいます。

しかし、今の自分とそのことに対して興味をもっていた自分は、まったく別人なのだから、学べなくなっても当然なんです。

目の前にドンドン積読が溜まってしまうのも、きっとそれが原因です。

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ただ、このことを本当の意味で理解できるようになれば、「いまこの瞬間に学ぼう!」と強い意欲も湧いてくるはずなのです。

降ってきた好奇心に素直に感謝できるようになり、「このチャンスを逃さないように!」と思えるようになるから。

これに興味を抱いている今の私は、これからも未来永劫決して現れない。

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もちろん、また別の角度からその対象に興味を持てる自分と出会えることもあるかと思います。

積読になっていた本にひさしぶりに手を伸ばしてみたら、当時はまったく読めなかったのに、今ならすんなりと読めたりもします。

しかし、それさえも自己が完全に変容ししてしまった証でもある。

この点、万物は流転すると唱えた哲学者・ヘラクレイトスは「同じ川に二度入ることはできない」と言ったといいます。

これは、見事にそのことを言い表してくれている言葉だなあと感じます。

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まさに「いつまでも、あると思うな、好奇心」です。

このブログをいつも読んでくださっている方にとっても、今日のお話が何かしらの参考になったら幸いです。

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