最近また、NFTにおける「ガチホ論争」が盛り上がってきていて「ガチホ推奨の運営は、不当に価値を釣り上げている!」というような意見を、頻繁に目にするようになってきました。

具体的には「本当は価値がないものをホルダーに対してガチホを共用することで不当に価格を釣り上げて偽の高級ブランドをつくりだしているんだ」と。

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僕は、その直観的な違和感は、ある意味では正しいと思っています。

そう、正しいのです。

そして、それが正しいからこそ、いまNFTに熱狂する僕らがガチホによって新たな「ブランド」の価値をつくっていくことが、ものすごく大事だと思っているんですよね。

なぜなら、この違和感を発端にして「価値」や「記号」、「交換」や「贈与」など、ブランドが生み出されてきた文化人類学的な歴史をたどりながら「価格というものが一体何なのか」をメタ的に把握することとができるからです。

少々わかりにくい部分もあるかも知れないのですが、以下でその意味をなるべく丁寧に、そしてできるだけわかりやすく書いてみようと思います。

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この点、NFTというのはただの「記号」です。最初は、何の価値もない。

そして、それを先にグルグルと「交換」することで、そこに「価値」が生まれてきます。

それは以前、「価値があるから交換するのではなく、交換するから価値が生まれる。」というVoicyの配信回の中でお話した通り。

で、さらにその記号というのは、そもそも何の質量も持ちません。

ブランドバッグやレアなスニーカーとは違って、実質的にも本当に無価値なものです。

こうやって聞くと、NFTはやっぱり詐欺なんじゃないかと思うはず。

でも、ぜひここでハッとしてみて欲しいんですよね。

実は、世間のありとあらゆるものが、本当はそうだったんだと。

僕らは普段から、様々な方法で魔法をかけられているから、世の中には何か物自体に「価値」のようなものがあると錯覚し、その対価に高額な金銭を支払っているように思っている。

でも、実際にはそんな「根源的な価値」や「最初から存在している価値」なんてものはこの世には存在していない。

NFTを実際に触ると、それがボンヤリと見えてくるはずなんです。

だからNFTに徹底的に触れて、その「価値」の本質を理解できるようになると、むしろ、いかに世間が共同幻想だらけで価値が決まっていたのかが手にとるようにわかってくる。

これも以前、似たような話は「NFTは「記号消費」の最終形態だからこそ、NFTで記号消費と真正面から向き合える」というVoicyの配信回の中で語ったことがあります。

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僕は今、ここにNFTに触れる一番の価値があると思っています。

具体的には「なんだ、『価値』ってこの程度のものだったのか…」と、自らの体験を通して実感するために。

僕らがこれまで人生の中で、ありがたいと崇めていたもの、大金を払ってみんなが欲しがっていたものというのは実はすべてこうやって創り上げられただけだったんだと。

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この点、去年の上半期ぐらいまでは僕自身も似たような批判的な目をNFTに対して向けていました。

「こんなの、デジタルアートと言いながら、実際はゼロとイチのただの数字のあつまりじゃねえか」と最初は本気で思っていました。

でも、次第に気づいてきたのです。いや、それで正しいのだと。

そして同時に、世の中のほうの「化けの皮」が剥がれていくような感覚を得ることができるようになったんですよね。

だからこそ、その批判の刃が向けられる対象というのは、むしろ世間のほうにある。そして、自分自身の「価値観」自体に向けるべき刃なのです。

なんという共同幻想に、これまでずっと騙されてきたんだと。

ここにハッとすることができるかどうかが大きな分かれ道だと思います。

僕は正直ものすごくハッとしました。だからこそ、NFTに今も全力で熱中している。

この感覚は、初めて原始仏教、つまりブッダの思想に出会ったときの感覚と非常によく似ているなあと思います。

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じゃあ、なぜ、そんなふうに思えるようになったのか?

それは、今ゼロからその「価値」が生まれるタイミングにまさに私自身が立ち会っているから、ですよね。

ここがめちゃくちゃ重要なポイントだと思います。

この点、いま世の中で価値があると叫ばれているものも、本当はすべてがこの過程を辿ってきて出来上がっている。

でも、それらは、もっともっと長い時間をかけて、しかも、もっともっと一部の人間によってうまく見えない業界内だけで行われていたことです。

一般市民に開放されるタイミングにおいては、テレビも雑誌も、ありとあらゆる評論家たちも「これには価値がある!」と太鼓判を押すように仕向けられている。

つまり世間の「空気」が完全に握られたうえで、僕ら庶民のもとに初めて届いているんですよね。

そして、少しでも違和感を述べようものなら「おまえのほうがわかっていないんだ!」というレッテルを貼られるように、完全にお膳立てされているわけです。

具体的には、「血筋」や「伝統」など様々な要素を巧みに用いて、その威厳や権威性のようなものが担保されていた。これには値段が高いだけの価値があるんだって。

この仕組みは、童話『裸の王様』のようなものです。

NFTは、今あえてそれを完全にオープンな場でやっているわけですよね。

ハイブランドからすると、本当は絶対にバラされたくないものを、完全にバラされてしまっている感覚がきっとあるかと思います。

しかもそれが非常に高速で行われている。たぶんNFTの1日は実際の1ヶ月ぐらいのスピードじゃないでしょうか。5年後ぐらいには、エルメスが何かしらのNFTブランドとコラボをしていても何の違和感もありません。

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さて、ここでもっとわかりやすい比喩を出すのなら、アイドル業界に突如として殴り込みをかけたAKB48のマーケティング戦略や、成長物語に似ているといえるかも知れません。

AKBが出てきた当初「あんなどこにでもいそうな普通の女の子たちが、アイドルになれるはずなんてない!」ってずっとバカにされていましたよね。

でも、すべてを曝け出しながら活動を続けていった結果、彼女たちは最終的にはどうなったか。ここで改めて言うまでもないかと思います。

そして、いまNFTの世界でやろうとされていることは「ブランド」におけるAKBのような革命なんですよね。

ただの画像、そこに価値がつけばつくほど「アイツらは騙されているだけだ!」と指摘したくなる。

でも、実際はこっちが本質なんです。

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似たようなことは、ジャン・ボードリヤールが『消費社会の神話と構造』という本の中で、マルクスが『資本論』の中で、ずっと指摘し続けてくれていて、何度も何度も歴史の中で言及され続けてきました。

でも一般人の僕らには、どうしてもそれが理解できない。

内容がむずかしいからじゃないですよ。それがあまりにも空気のようにあたりまえになりすぎて、ベッタリと自分自身にそれが染み付いているから。

それは、僕らに「空気」を自覚しろというようなもの。そもそも、客観視なんてできない代物なんですよね。

それよりも、そんな疑問を差し挟む余地を生まれないぐらい「欲しい!」っていう感情のほうが先に来るように、催眠術のようなものを日々ありとあらゆる「広告」を通じてかけられている。

でも、今はじめてこの「価値」が形成されていく過程を、超高速で擬似体験しながら「なんだ、フタを開けてみればこんなものだったのか…」と理解できるようになったわけですよね。

ここが本当に画期的なんです。

だから、冒頭の批判は、やっぱりある意味では正しいんですよね。

正しいと思うからこそ、ぜひ一度、嫉妬などの感情を一旦すべて抜きにして正しく見定めてみて欲しいなあと思います。

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じゃあ、僕らはそんなただの幻想でしかない「記号」のやり取りを、指をくわえて見ているだけしかできないのか、と思うかも知れない。

でもそれも、違うんです。

僕らは、この催眠術や共同幻想から「覚醒」できたからこそ、次はその化けの皮が剥がれたものに対して、本当に付与したいものを、しっかりと付与していくということもできるようになるんだと思います。

AKBの事例で言えば、AKB以前と以後で、僕らがアイドルに求めるものは大きく変わりましたよね。

昔はただ可愛くて、歌やダンスが上手で、トイレには絶対に行かない女の子という、いま考えると全くわけのわからない幻想がそこにあった。

でもAKB以降、もっともっと彼女たちの内面をみるようになった。

さらには、彼女たちの人権も当然のように考えるようなりました。これまで世間でつくりあげられていた擬似的なアイドル像の「価値」を刷新したわけですよね。

同じように、僕らの手によって「高価なブランド」の再定義がこれからできるようになる。

ここが、NFTの真の革新性なんですよね。

本当の「ブランド」とはどのようにあるべきなのか。誰が持っているべきで、どうゆうコミュニティに囲まれていて、一体何が共通の価値観や哲学であるべきなのか、というように。

これからも「あんなものは何の価値もない『記号』にすぎない」という声は至るところから飛んでくると思います。

それはその通り。

「そしてあなた方が持っている、そのバッグや車、腕時計もそうですよね」と言い返しながら、本当の意味での「豊かさ」を体現できるコミュニティをゼロから構築していく必要がある。

それが今、NFTの黎明期を生きる僕らに課せられている使命でもあり責務だと僕は思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。