インターネットの歴史も少しずつ長くなってくると「あのころのインターネットが懐かしい」みたいな声が徐々に増えてきます。

でも僕は、このような声を見かけるたびに、いつも今が一番良いと思っています。

バブル時代を懐かしむ声なんかもそうなのですが、そのようなことを述べる方々の意見によくよく耳を傾けてみると、結局は「自分が若くて輝かしかった時代に戻りたい」と願っている懐古主義みたいな場合が多いなあと。

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じゃあ、このような懐古主義には全く意味がないのでしょうか。

すべてが新しく生まれ変わり、今が完全にベストなのか。

もちろん、決してそんなことはないと思います。今も、過去と同様に不完全であり、過渡期のさなかです。

そして、やっぱり、そんな現代と過去を比較したときに感じる問題意識、自らの内側にモヤモヤと立ちあらわれてくる何かしらの「違和感」にも必ず何かしらの意味や、価値のようなものはあると僕は思います。

問題は、その「過去」を懐かしむ気持ち、つまり「伝統」の取り扱いのほうであり、その向き合い方だと思うのですよね。

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この点、以前もご紹介した政治学者・中島岳志さんの『リベラル保守宣言』の中に出てきた批評家・小林秀雄の言葉が非常に参考になるなあと思いました。

以下、本書からの引用となります。

小林秀雄は「あらゆる現代は過渡期であると言っても過言ではない」と述べていますが、私たちの社会では永遠に問題が起こり続けます。しかも、時間の経緯と共に社会のあり方は徐々に変化をしていきます。人間の感情は複雑で、その人間が構成する社会のあり方は、さらに複雑な要素を持っています。 重要なのは、変化に対する覚悟を持つことと、堅持することの沈着さを持つことです。そして、「何を変えるべきか」「何を変えてはいけないか」を見極める知恵を、歴史から継承された平衡感覚に求めることです。


「重要なのは、変化に対する覚悟を持つことと、堅持することの沈着さを持つことです」という部分は、非常に同意です。

じゃあ、どうすれば、その両方を同時に持ち合わせることができるのか。

本書では、さらに以下のように続きます。

 かつて、小林秀雄は「伝統について」という文章を書いていますが、彼はここで次のように言っています。     

    僕等が無自覚で怠惰でゐる時、習慣の力は最大であるが、伝統の力が最大となるのは、伝統を回復しようとする僕等の努力と自覚においてである。習慣はわざわざ見付け出して、信ずるといふ様な必要は少しもないものだが、伝統は、見付け出して信じてはじめて現れるものだ。従つて、さういふ事に努力しない人にとつては、伝統といふ様なものは全く無いのである。(中略) 伝統は、これを日に新たに救ひ出さなければ、ないものなのである。

つまり、本当の伝統とは「再帰的な存在である」というのです。ただ単に環境に埋め込まれ、自明の秩序の中で暮らしているだけでは、「伝統を獲得した」ことにはなりません。「伝統」とは、常に「伝統とは何かという問い」を発するところに芽生えるもので、主体的な意志を持って背負っていく存在なのです。


このお話は、本当に大切なことを、僕らに伝えてくれていると思います。

「伝統」とは、常に「伝統とは何かという問い」を発するところに芽生えるものであって、主体的な意志を持って背負っていく存在なのだという部分は、本当に小林秀雄の慧眼だなあと。

少々わかりにくいかと思うので、僕の言葉で改めて捉え直してみると、「伝統」という客観的なものは、そもそもこの世には存在していない。

あるとすれば、「伝統とは何か?」と僕らが問いを立てたときに、そこに立ちあらわれてくる価値観や美意識のほうだということです。

そのためには、目の前の出来事を正しく見定めて、問い続ける必要がある。

そのときにはじめて、正しく伝統が受け継がれていくのだと思います。

これは昨日書いたブログの中で伝えたかったことと、非常によく似ています。

そして、最後に本書は以下のように続きます。

小林は「故郷を失つた文学」という文章の中で次のように述べています。     

歴史はいつも 否応 なく伝統を壊す様に働く。個人はつねに否応なく伝統のほんたうの発見に近づくやうに成熟する。     

小林の見るところ、本当の伝統は「伝統が失われている」という自己の意識との出会いの中に現れます。「伝統の喪失」という意識こそが、人々を伝統への気づきに誘導し、「守るべき伝統とは何か」という問いを発生せしめるのです。


つまりこれが、「モヤッとした違和感」の本当の活かすべき方向性なのだと僕は思うのです。

この問いを自らの中に立て続けながら、個人が成熟していくことにこそ、その価値や意味があるのだろうなと。

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そして、この「問う」という作業が、今ものすごく大切だと僕は感じるのです。

なぜなら、社会の変化があまりにも激しいからです。

昨日ガラッと変わったと思ったら、今日もガラッと変わってしまう。つまり、常に新たに刷新されていく中で僕らは、何を本質として受け継いでいかなければいけないのかを問い続けなければいけない。

このような変化のスピードが早い時代において、モヤッとした違和感が生まれてくるのは当然で、そのときに漠然と保守的なスタンスで生きていると常に懐古主義に陥りかねません。

そうなったら最後、ひたすら現代を呪う人間になってしまいます。

だからこそ、問い続けなければいけない。

そして、そのモヤッとした感情の中から、伝統、その本質を抽出し、それを次の時代に新たな形で実装していく必要がある。

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じゃあ、その「問う」という行動の本質とは、一体何なのでしょうか。

日常的に使っている「問う」という言葉って、実は意外と曖昧な言葉だと思うのですよね。

今度は「問う」という語源から、それを少し考えてみたいと思います。

こちらも以前ご紹介したことがある能楽師・安田登さんの書籍『あわいの力』の中に非常にわかりやすいお話が書かれてあったので、この本の中から少し「問う」の語源を引用してみたいと思います。

「問う」は、古語では「とふ」です。漢字が伝来したときに、この言葉に異なる三つの漢字が当てられました。ひとつは「問ふ」、ひとつは「訪ふ」、もうひとつは「弔ふ」です。     この三つの「とふ」に共通するのは、すべて、自分から対象に向かって働きかける身体的な行為であることです。相手が「答える」かどうかは関係ない。こちらから積極的に働きかけていく。そういう主体的な行為が「とふ」なのです。     
    
    さらには、「訪ふ」と「弔ふ」から連想されるように、そこには移動が含まれ、敬意が含まれます。相手に敬意を持って働きかける、それが「とふ」なのです。 「とふ」ことは、必ずしも「答え」をともなう行為ではありません。「答えのある問い」もあれば、「答えのない問い」もあります。むしろ、本当に重要な「問い」にははっきりとした「答え」はありません。


「相手に敬意を持って働きかける、それが『とふ』なのです」というのは本当に同意です。

そして必ずしも、これは「答え」をともなう行為ではない。ここが本当に大切なことだと思います。

問う以上、何かしらの答えを求めてしまうのが人間です。

でも、実際は違うんですよね。

小林秀雄も言うように、問うとは個人が「成熟」するための過程であり、そこに答えはない。

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この点、「Wasei Salon」のキャッチコピーは「私たちのはたらくを問い続ける」というキャッチコピーになっています。

このサロンの一番重要なメッセージとして「問い続ける」ということを主眼に置いています。

このキャッチコピーを定めたときには、なぜいま「問い続ける」ことが重要なのか、そこまではっきりと理解はできていませんでした。

でも、小林秀雄や、安田登さんがおっしゃるとおり、それが僕らひとりひとりを「成熟」させてくれる道につながるからだと思います。

そこで初めて僕らは「ハッと気がつくこと」ができる。

この連綿とした問いの中で、成熟を獲得していく過程こそが、「守るべき伝統とは何か」「新しい世界で僕らが実装するべきことは何か」という気づきや発見を、私のなかに生み出してくれる。

もし、僕らが「巨人の肩の上に乗る」ことができる状態が本当に存在するのなら、この問い続けるという行為をやめないときだけだろうなあと思います。

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言い換えると、ひとりひとりにとっての大切にしていきたい伝統とは何かを、変化の激しい時代の中で、それを問い続けようと努力し続ける過程のなかに、生まれてくるものが本当の価値です。

変化のスピードが早いということは、何度も何度もそれを自らに問うきっかけがあるとも言える。

ある意味では、非常に恵まれた時代に、僕らは生きているともいえるのかもしれません。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日の内容が何かしらの考えるきっかけにつながっていたら幸いです。