なぜ、NFTによって生まれてこようとしている新たな「コミュニティ」の形が、ものすごく重要だと思うのか。

それがあまりうまく伝わっている気配がないので、今日は、過去数十年の利害関係(ビジネス)の変化、その構造の変遷から、この理由について書いてみたいと思います。

ーー

まず、これまでの企業とお客様の関係性というのは「対面接客」が基本でした。

いかに目の前の相手をおもてなし、いたれりつくせりを施すことができるのか。

その対価としての大金をいただくことが一般的だったのが、戦後復興〜高度経済成長時代の日本です。

当然ですよね。単純に、モノがなかった時代なのですから。

とにかく、モノを与えること、想像しうるお客様の欲求すべてに対して、腹一杯に満足を施すことが最良の関係性づくりだったということなのでしょう。松下幸之助の「水道哲学」そのものです。

ーーー

ただ、次第にものが溢れかえるようになり、消費者側にも変化が訪れます。

他者から与えられることが、必ずしも自らに満足をもたらすことではないということに、多くのひとが気づいてしまったのです。

それよりも、「体験」の価値のほうが上がり、さらに自らが能動的に「与える体験」を求めるようになった。

まさに、モノ消費からコト消費へと語られるような文脈です。

ーーー

具体的には、自分が舞台の外側から最高の商品や作品をつくり手に提供してもらうことよりも、舞台を一緒につくりあげていくほうに、楽しさや満足感の価値が移った。

そこにちょうど良いタイミングで、スマホやSNSで自らの活動を発信できるという「個人メディア」の流れも合流してきて、ある種の「自己承認欲求」みたいなものが、そこに立ちあらわれてきたわけですよね。

つまり、運営者側も消費者側も対面するのではなく、同じ舞台に上がり「同じ方向」を向くということに価値が移っていったわけです。

ここがものすごく大きな1つ目のターニングポイントです。

ーーー

この点、従来から存在している会社においても、そこに集まるひと全員で同じ方向を向くような場所として存在していた。

でも、会社は前衛と後衛に明確に分かれる感じがありますよね。

そこには、ヒエラルキーが明確に存在していて、責任の所在もハッキリしているのが特徴です。

それぞれの立場が揺らぐことはありません。まさに年功序列の世界です。

ある意味では、同じ方向を向いているのだけれども、どちらかといえば、雇用者と労働者の関係性というのは雇用者契約によってつながっている「対面的な関係性」でもあるといえる。

ーーー

でも、オンラインサロンの登場あたりから、それが明確に変わってきました。

同じ方向を向くだけにとどまらず、運営側も参加者側も、そこに主従関係やヒエラルキーは一切存在せずに、完全に「横並び」になったんですよね。

つまり、キャンプファイヤーをみんなで囲むようなイメージを想像していただけるとわかりやすいかと思います。

そして、みんなが横並びになって、囲んだその円の内側の「熱量」を高めていくような楽しみ方や満足感に完全に移ったのです。

まさに、以前このブログ内で語ったことがある「焚き火型」そのものですね。

ーーー

そして、ここからが今日一番強く伝えたいポイントでもあります。

いまNFTコミュニティの登場によって、横並びで手を握りあったメンバー同士が、この円の「内側」を向いて楽しむのではなく、円の「外側」を向けるようになったんです。

ここが非常に大きな大きな変化だと思います。

そしてゆっくりと、でも着実に、外側に一歩ずつ円を広げていこうと全員で足並みを揃えて踏み出していくことができるようになった。

つまり、皆でそのコミュニティの「価値」を高めていこうとする作業が一緒にできるようになったのです。それぞれの「得意」を用いて。

じゃあ、なんでこんな変化が、いま突然起きているのか?

そう、NFTが登場したからなのですよね。

この参加券が、NFTになっているのだと思って欲しいです。そして、NFTを経由することで、その円が拡大することによって生まれた「価値」を、参加者全員になめらかに転換することができるからです。

これがオンラインサロンだと、なかなかに難しいということは理解できるはず。

円の内側の焚き火を眺めることにみんなが価値を感じていたタイミングにおいては、それ自体がコンテンツだったから月額課金型でもまわっていた。

でも、円の外側に広げていくことによって、そこで生まれた新たな価値を、その円をつくっている全員に分配していく必要がある。

そして、もちろん、円が大きくなるにつれて、人の手も足りなくなってくる。円周が大きくなり、その間に入ってくる余白が自然とうまれてくるわけですから。

ーーー

以上のように、利害関係における「対人関係」や「集団」「共同体」における変化が起きている中で、NFTの運営側に対して対面接客のような対応を求めるのは論外です。

もちろん、会社における前衛の役割を求めるのも違う。

そして、ひとりだけ円の内側を向き続けるのも違いますよね。そこだけベコッと凹んでしまいますから。

僕の助言は、なるべく早くこの変化に気がついたほうが良いということです。

そして、このやり方が実は、人間に一番の「多幸感」をもたらしてくれるということも同時に強く理解しておきたいことです。

ーーー

ここで、少し自分の話になって恐縮ですが、僕はイケウチオーガニックというタオル屋さんが大好きで、大学生のころから全力で応援しているのですが、この15年間ずっと追い続けてきて、明確に気づいたことがあります。

それは、自分の中に立ち合わられてくる一番の喜びというのは、イケウチさんの商品で自分の生活空間をすべて満たすことでもなければ、イケウチさんのイベントに参加して一緒にものづくりの一端を垣間見させてもらうことでもなく、この価値を広げていくお手伝いをすることだったのだと。

つまりイケウチオーガニックという「ブランド」の価値を目一杯一緒に高めていくような作業、一見すると労働のような作業が、最高の快楽だったというわけです。

この喜びはきっと、イケウチさんで働いているみなさんも持ち合わせている。だからイケウチさんの社員の方々は特別で、本当にみなさんいつも楽しそうに働いていらっしゃるのだと思います。

ーーー

ここに自覚的になることが本当に幸福感の源泉だと思う。そして「働く」の本質でもあります。

現代の推し活ブームだって、この片鱗と言えるかと思います。

そしてこれは、誤解を恐れずに言えばやっぱり「宗教」にも近い。

まさに、宣教師を担うような感覚なのでしょうね。

皆さんご存知、フランシスコ・ザビエルは、あの時代に日本までわざわざやってきた。

当時、教科書を眺めながら不思議に思ったことはありませんか。「どれだけこの人は、ブラック労働の環境の中で働いていたんだ?」と。

でも、遠藤周作の『沈黙』なんかを観れば非常によくわかるのですが、やはりそれがいちばんの喜びだったから、命の危険をおかしてまで、日本という極東までやって来たのだと思います。

ーーー

この点、宗教の創始者って、あくまで預言者であって「言葉を預かる者」と書きます。

企業の創業者と根本的に異なるんですよね。

株式会社は、その創業者のアイディアに対して、単純にひとが足りないから、手伝う人を増やしていくという手法なのです。

そのアイディアが実現した際には、手伝った人間にもそれ相応の報酬を与えるよ、と。

つまり、そこには雇用者と労働者という立場の違いがあって、主従関係も存在し、報酬分配が異なるのも当然のこと。

でも、宗教やNFTコミュニティはあくまでも、その価値観や思想、哲学を預かるひとが最初のソレを始めただけであって、その「価値観」自体は、誰のものでもないのです。

ゆえに、平等分配になるんですよね。

いつどのタイミングから参加したところで、そこにヒエラルキーは存在しない。

それぞれに、それぞれの目的がある。チームを組んでいるけれど、それぞれにスタンドアローンなんです。それは映画『スラムダンク』でも明確に描かれていた世界観。

その「価値観」を広げたいひとが自由に参加して、ちょっとずつ価値観がズレてきたり、違うと思ったらりしたら、また自由に抜けられて、他のNFTコミュニティに参加できるのがいいところ。もちろん複数同時に参加もできる。

ーーー

この構造変化をちゃんと捉えないと、次の10年は、完全に蚊帳の外に置かれることになってしまいます。

外側に向かって大きくしていく円に複数所属していくことが、これからの「働く」という行為そのものになり、同時に「暮らす」や「生きる」そのものにもなっていく。

従来のように、対面接客や前衛後衛の関係性を求め続けない。

そんな「お客様マインド」や「労働者マインド」は早めに捨て去ったほうがいいと思います。

ひとりひとりの主体性が、強く強く求められていく時代になっていくからです。

このような主体性を持つ人間と、持たない人間のあいだで、そこに大きな格差が広がっていくことは間違いない。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。