昨日、イケハヤさんがVoicyでフリーミントと「贈与」に関して非常に重要なお話をされていました。

これは今とっても大切なテーマだなあと思います。

で、それを聞きながら僕が思い出したのは、思想家・内田樹さんの「コミュニケーションは贈与である」というお話です。

これはきっと誰にとっても、身に覚えがあって手触り感のある内容だと思うので、ぜひ最後まで読んでみてもらえると嬉しいです。

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では、さっそく内田樹さんが書かれた『疲れすぎて眠れぬ夜のために』という本からの引用となります。

小津安二郎の『お早よう』という映画のラストシーンで佐田啓二と久我美子は駅のホームでこんな会話をかわします。 
「こんにちは」 
「こんにちは」
 「今日どちらまで?」
 「ちょいと西銀座まで」 
「いい天気ですね」 
「いい天気ですね」
 「あ、あの雲何ですか?    何かに似てますね」
 「何かに似てますね」 
「いい天気ですね」 
「いい天気ですね」
     二人はこんなふうに終わりなく同じことばをただ繰り返すだけです。でも、この会話が二人にとって至福のコミュニケーションであることがぼくたちには確信されます。どうしてでしょう。現にここには有意な情報のやりとりは何もないのに。ではいったい、この会話では何がやりとりされているのでしょうか。

 二人の間を行き来しているのは、「私はあなたのことばを聞き取った。私たちの間にはコンタクトが成り立っている」というメッセージです。というのも、相手とのコミュニケーションが成り立っていることを相手に知らせる一番確実な方法は、聞き取ったことばをもう一度繰り返すことだからです。


僕はこの文章を初めて読んだとき、正直あまりピンとこなかったことを記憶しています。

映画の中に出てくるふたりの会話に、本当に文字通り何の意味もないと思ったからです。

でもなぜか、ものすごく強く印象だけは残ったんですよね。

そして、時が経つにつれてその考え方も大きく変わってきました。

実はこれって、ものすごく重要なことを語ってくれているんじゃないかと。いや、むしろ、これこそが「交換」や「贈与」「コミュニケーション」の本質なんじゃないかと思うようになったんです。

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本書ではさらに以下のように続きます。

恋人同士は、「愛してる」「愛している」と永遠と告げ合います。これがほかのどんな話をするよりも恋人たちにとっては 愉しい会話なのです。だって、彼らは別に有意なメッセージの交換をしたいわけではないのです。彼らが望んでいるのは、自分の「メッセージの贈り物」を受け容れてくれる他者がかたわらにいるという事実を確認すること、ただそれだけなのです。
(中略)
 ほんとうに親しい人たちの間では、ときには「何もしない」ということが貴重な贈り物になることもあるのです。でも、こういうことには、「コミュニケーションとは贈与である」という、ものごとの基本が分かっていないと、なかなか理解が及ばないでしょうね。


最初に人類が「贈与」を行うようになったのも、たぶんこの私の贈り物を受け入れてくれる他者が傍らにいるという事実を、単純に確認し合うためだったんだと思うんですよね。

その贈与から得られる実利や実益というのは、完全に後付だと思います。

そもそも何かの見返りを求めて、贈与をしているという感覚さえなかったと思います。だって、当時の人間は「時間的概念」を持っていなかったのだから。

今の私の贈与的行為が、未来になって他者から何かしらの返礼として私のところに戻ってきたところで、その因果関係自体をきっと理解できなかったはずです。

もちろん、そこから生まれてくる発展型のビジネスや商売なんかは、さらにさらに後付の理論です。

まず最初にあった一番根源的な喜びは、単純にここにはあったはずなのです。今この瞬間の贈与行為をお互いに楽しみ合っていただけだと思います。

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じゃあ、なぜ今さらになって、この「贈与」の観点が非常に重要になってきているのか?

言い換えると、どうして僕らはフリーミントなどという手段を通じて贈与的なコミュニケーションを突如として行い始めていて、それを非常に重要な行為だと思い始めているのか。

内田樹さんのまた別のブログ「自立と予祝について」というタイトルの記事の中で、非常に参考となる観点が書かれていたので、以下で引用してみます。

「おはようございます」に対しては「おはようございます」と返礼することが義務づけられている(この義務を怠るものにはきびしい社会的制裁が待ち受けています)。
(中略)
そのような相互的予祝(よしゅく)のネットワークのうちに自らを位置づけること。それが僕は「自立することが困難な時代における自立」のかたち、つまりその語の本来の意味における「自立」ではないかと思うのです。
私たちは自分が欲するものを他人にまず贈ることによってしか手に入れることができない。それが人間が人間的であるためのルールです。今に始まったことではありません。人類の黎明期に、人類の始祖が「人間性」を基礎づけたそのときに決められたルールです。親族の形成も、言語によるコミュニケーションも、経済活動も、すべてこのルールに準拠して制度化されています。

そうなんですよね、「自立することが困難な時代における自立」のかたち、それを僕らはいま直観的に感じ取っているからだと思います。

逆に言えば、このような「コミュニーケーションという贈与」を繰り返している中だけに、真のコミュニティや共同体というものは自然と立ちあらわれてきてくれると思うんですよね。

つまり、NFTという新しい仕組みを使って、まったく新しいコミュニティを生み出していこうというムーブメントの中で「誰が参加しますか?」という、この指とまれ的な贈与をフリーミントを通じて、僕らは始めているのだと思います。

そうやって必死で、自分の「メッセージの贈り物」を受け容れてくれる他者が誰なのか?をお互いに確認しようとしている。

そして、伝わる人には、はっきりとそれが伝わっているのだと思うのです。

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本ブログ内において、内田樹さんは更に以下のように続けます。

そういう意味では、僕たちはすでに贈与と返礼のサイクルのうちに巻き込まれているのです。それが順調に機能している限り、僕たちは人間的な生活を送ることができている。
そんなのは「当たり前」のことであって、自分は誰からも贈与なんか受け取ったことはない、だから誰にも贈与しない、オーバーアチーブなんて冗談じゃない、というふうに考える人は、つまり「受け取るだけで、次にパスを出さない人」は、贈与と返礼のサイクルからしだいに押し出されて、周縁の「パスの通らないエリア」に位置づけられることになります。もちろんそこでも基本的な社会的サービスは受けられます。でも、その人宛ての、パーソナルな贈り物はもう誰からも届かない。


これなんかはまさに、フリーミントからのペパハンの末路そのものですよね。

フリーミントを繰り返す中で、そのリストが淡々と取られているという話は、先日もお伝えしたとおりです。

さて、最後に内田さんは本ブログ記事の中で以下のように締めくくります。

僕たちの時代がしだいに貧しくなっているのは、システムの不調や資源の枯渇ゆえではなく、僕たちひとりひとりが「よきパッサー」である努力を怠ってきたからではないかと僕は考えています。僕たちは人間の社会はどこでも贈与と返礼のサイクルの上に構築されているという原理的なことを忘れかけていた。だから、それをもう一度思い出す必要がある。僕はそう思います。


以上となります。

つまり、イケハヤさんたちは、フリーミントという贈与のコミュニケーションを通じて、大げさではなく、最初の贈与の起点になろうとしてくれているのだろうなと僕には見えています。

逆に言えばその贈与物の内容というのは、本当に何でもいい。

あいさつぐらいに無意味なもの、つまり「記号」で構わない。そのあいさつに対して、僕らがあいさつを返せるかどうか。

ここで、挨拶の価値を今一度思い出してみて欲しいのです。

挨拶がある地域や会社は、自然とすごく居心地がいい場所だなあと思うはず。

それは、常にお互いにコールアンドレスポンスを行っているからです。この私の挨拶という贈り物を受け入れてくれる他者が、傍らにいるという事実を日々確認し合っている。

そんな住心地がいいところに「価値」が生まれてこないわけがありません。

一方で、都会を歩いていると、他人と挨拶なんか交わさない。

私に挨拶をしてくれるのは商売をしている店員さんたちだけ。彼らは、商取引を期待しているだけです。

そうじゃなくて、ひとりひとりが人間として、もっともっと本質的な贈与と交換をおこなうコミュニティを、いま僕らは必死で立ちあげようとしているのだと思います。

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だから、記号のようなフリーミントによる挨拶、その贈与にこそ価値がある。

それに対してちゃんとコールアンドレスポンスすること。

もちろん、それは等価交換である必要はないです。だって、贈与なんだから。

「確かに受け取りました」と、ただ持ち続けているだけでもいい。それも立派なレスポンスです。

そのような人々があつまると、自然発生的に、そこにポジティブな気運のようなものが生じてくる。まさにバタフライエフェクトのようなもの。

そうやって贈与を正しく受け取れるかどうかが、いま僕らホルダー側に求められている姿勢なのだと思います。

今日のお話が、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。