昨年に引き続き、オトバンクさんが主催する「オーディオブック大賞2025」の授賞式に今年も観客として参加してきました。

毎年開催されているこの「オーディオブック大賞」の授賞式イベントに参加するのも、今年でもう4回目ぐらいになるかと思います。

今日は、このイベントに参加して感じたことを、少しこのブログに書いてみたいなと思います。

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このイベントで個人的に毎回楽しみにしていることは、受賞者のみなさんのスピーチです。

今年の文芸大賞は小説『地面師たち』が選ばれていて、著者の新庄耕さんが会場でスピーチをされていました。

「地面師たち」は不動産取引の話なので、結構ご年配の方が作家なのかなとおもいきや、意外と1983年生まれと若い作家さんなんだと知って、ビックリ。

今年は本当に「地面師」の年だったなあと思うし、作家の新庄耕さんも人生が激変したんだろうなあということが、観客のこちら側にも、見事に伝わってきました。

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その証拠に一言目が「この作品は大賞を、受賞すると思っていました」という一言で笑いを誘っていた。

もちろん、そこにはちゃんと謙遜が含まれていて「参加されている声優さんたちの演技が本当に素晴らしかったからだ」と。

ここまで魂を込めてオーディオブックがつくられていれば、大賞を受賞しても何の違和感はないという趣旨で語られていました。

こういうジョークを挟めるのが、時代を掴んだ勝者の風格というか時代の風に乗っている方、特有のパフォーマンスだなと感じます。

うまく表現できないですが、なんというかこういう「雰囲気」みたいなものって、同じ空間で、全身を見ながらスピーチを聴いてみないと、わからないものがあるなあと毎回思う。

他にも、普段ほとんど交流がないタイプのひとたちが、続々と壇上でスピーチしていて、いつもとは全く異なる界隈のひとたちの立ち振舞いを無迄観ることができる。

それがどのような内容であっても、どれも等しく興味深くて、季節的な風物詩として大変に貴重な機会だなと感じています。

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さて、このイベントに参加して感じた、もうひとつの大きな気づきはビジネス書大賞の顔ぶれの変化です。

今年は、その雰囲気がガラッと変わっていたなと思います。

今年の準大賞は、東洋経済新報社から出ている『休養学    あなたを疲れから救う』

そして大賞は、三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』です。

タイトルも体裁も、もはやビジネス書なの?と思うような本。

でも逆に言えば、最近はビジネス書が人気がないと叫ばれている中で、こういうところにも見事に、その影響が出ているんだろうなと思います。

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特に、オーディオブックという形式において「音で聴く」という場合には、余計に顕著なのでしょうね。

ビジネスマンが、忙しい毎日の中、オーディオブックを使って、それでも隙間時間や「ながら聴き」で聴きたいと思うビジネス系のジャンルを選ぶとなれば、この2冊になるということなんだろうなあと。

これは、今の世相を見事に表しているなと思います。

ちなみに参考までに昨年のビジネス書大賞の受賞作は、以下の二冊です。

『とにかく仕組み化 ── 人の上に立ち続けるための思考法』
『JUST KEEP BUYING 自動的に富が増え続ける「お金」と「時間」の法則』

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とはいえ、現代は一方でワークライフバランスに疑問の言葉が投げかけられて「働きたいひとは徹底して働かせろ」という文脈も同時に語られているのが、昨今です。

そして、今回の大賞の受賞者である三宅香帆さんは、会場にはお越しになっておらず、出版社の方による代読スピーチでした。

昨年は、トークイベントの特別ゲストとして会場にいらっしゃっていたので、今年は現地に参加できないぐらい、本当にとてもお忙しいんだろうなと思います。

実際、三宅さんをメディア上で見かけない日はないぐらいに、いま本当に大人気の作家さんだと思います。

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本書の中で提唱されている「半身で働く」という概念自体も「いつかは半身で〜」ということであって、それまでは全力で働きたいという趣旨のことが、本書の後半部分では語られている。

そして、結局、現代の社会人はみんな同様にそう思っているということなんだろうなと。

結果的に、それが現代の労働市場から降りられない一番の原因にもなっている。

「脱成長」の議論なんかもそうですよね。

つまり、みんな「半身で働いて、脱成長をしたい」と心から願っている。でもそれは結局、いまじゃなくて、”今だけは”全力で働きたいと思っている。

なぜなら、早くそんな労働市場、つまりラットレースから降りたいから、です。

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ここが今日の一番のポイントでもあり、僕が最近の労働やビジネスの特徴だなと思う点でもあります。

この点、最近いろいろなひとから「労働とお金」についてどう感じているのか聞く機会が増えました。

そうすると、僕のまわりのみなさんは口を揃えて「お金に興味がなくて、お金のことについて忘れたい、お金の心配をしたくないから早いところ稼いでしまいたい」という話を語ってくれるのです。

たぶん、これを読んでいるみなさん、そしてVoicyでこの内容を聴いているみなさんも似たようなことを考えながら、日々労働をし、財テクや個人の投資活動を日々取り組んでいるはずです。

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で、そりゃあ、みんながそうやって考えていれば、結果的に労働市場が過当競争になるだろうなと思うのです。

つまり、全員がまったく同様に「労働とお金」に興味がないからこそ、全員がはやくそこから降りたくて、全員が奪い合っているという状態です。

そして、そうやって労働者たちが争えば争うほど、既存の資本家たちだけが自動的に資産が増えていく構造。

あまり世代論で区切りたいわけでもないけれど、そうすると団塊の世代の重鎮たち、まさに麻生さんみたいな会長と呼ばれるようなポジションのひとたちが、すべてを吸い上げていく構図になる。

そして、きっと、みんなこのようなビジネスの構造に対して、もう疲れ果てている気がするんですよね。

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つまり、みんな、労働が嫌い、お金が嫌い、なんですよね。

本当に人生で欲しているのは、「仕事」と「自由」であるはずなんです。ただ、そのためには、大前提として「労働(スキル)」と「お金」が必要だということ。

文字通り「労働とお金」が好きだというのは、本当に物好きな人たちだけ。

しかもそうやって堂々と「労働とお金が好きだ」だと語る人々の大半も、先天的に好きなわけではなく、社会の経済の構造を正しく見定めたうえで、好きになったほうが圧倒的に生きやすくなるから、後天的にそちら側に合わせていったはずなのです。

まさに村田沙耶香さんの『コンビニ人間』みたいな話です。

つまり、生まれた瞬間に労働が好き、お金が好きという人間はまずいない。

そもそも労働もお金も、実態ではなく社会の「概念」ですから。時代の産物なわけです。どちらも、それが生まれてからは数千年程度の歴史しかない。

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そして同時に、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』に書かれている以下の言葉を思い出さずにはいられません。

どのような社会でも、それがうまく機能するためには、その成員が、その社会あるいはその社会の中での特定の階層の一員として"なすべき"行為を、"したくなる"ような性格を身につけていなければならない。かれらは客観的にみて、かれらに必要なことを、欲しなければならぬ。すなわち、"外的な力"は、"内的な強迫"に転化され、また、人間の特殊なエネルギーによって、それは性格の特性となるのである。


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大半のひとは、好きでもない労働に取り組まされてしまっているがゆえに、余計に精神がすり減って疲れてしまう。だから、「休養」の話も表立って語られるようになる。

つまり、休養のテーマが一番ビジネスというジャンルで売れる本になっていくわけです。

そして、それらが売れるからこそ、余計に労働とお金に対しての嫌悪感が高まり、みんな一刻も早くそこから抜け出そうとして、労働とお金に余計に集約されていってしまうジレンマ。

このネガティブスパイラルこそが、現代社会の構図だなと思います。

さて、これは本当にどうしたもんか、と思う。

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つまり僕らは社会の構造に絡め取られている。

みんなで一斉に降りられればいいのだけれど、そうはいかない。

なぜなら、世の中には「コンビニ人間」がたくさんいるからです。

まさにコンビニ人間というのは、 "なすべき"行為を、"したくなる"ような性格を身につけていなければならないと悟った人々であるわけです。

すなわち、"外的な力"は、"内的な強迫"に転化され、また、人間の特殊なエネルギーによって、それは性格の特性となったような存在です。

その正体が、まさにコンビニ人間。

というか、このエーリッヒ・フロムの小難しい話を、僕らにわかりやすく「物語』形式で伝えてくれているのが、あの小説だと思います。

「コンビニ」という資本主義の権化のような仕組みに最適化したひととして、ディストピア的に描いてくれているわけですが、意外にもそのディストピアをユートピアに読み替える読者も多かった。

それがあの本がこれほどまでに人気となり、語り継がれている理由だと思います。

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コンビニ人間のように、社会の構造に対して自らをアジャストしすぎた結果として、剥き出しの心を完全に鎧で守ってしまったひとたちが、自分の「本当の好き」だと認知をして突き詰めた結果として、現代社会の構造を強化する側にまわってしまう。

そして、実際に開き直ってみれば、案外それも、ものすごく楽しいわけです。

なぜなら、わかりやすく歯車の一部になれて、数字としての結果も出るから。ゲームみたいな感覚になる。

たとえば、僕らはドラキュラみたいな存在、ゾンビみたいな存在を忌み嫌うけれども、でも、実際自分がなったらなったで楽しいのがきっとドラキュラであり、ゾンビだと思います。

僕らは、たまたま生身の人間側の視点で、あのようなホラー小説を捉えるから、彼らが不気味に思えるだけで、実際に自分がなってしまえば「今日は何人、こちら側に転生させることができた」と、その楽しさとスリルは尋常じゃないと思います。

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結果として、自らの成長を感じられるし、なにより自己肯定感が爆上がりする。

社会からの数字による承認というのは、それぐらい本人に対する影響力が強い。

「半身」や「脱成長」を提案した張本人たちが、半身どころか、その主張が人気になればなるほど、「全身」全霊で「成長」を追い求めていくことになるように、です。

これは、心の底から平和を求めて、「平和」の理念を掲げ、その実現のための「反戦」活動のためだと語って、武器を持って戦ってしまう構造と全く同じ。

そして、これっていうのは彼ら・彼女らが悪いわけではなくて構造的要因で、太古の昔から不可避なんだと思います。

反戦として平和を訴えれば訴えるほど、現場で戦う戦士たちは疲弊して疲れていくジレンマ。

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もちろん、ここに対する答えはない。考え続けるしかない問いだと思います。

なにはともあれ、今年の「オーディオブック大賞」も、本当にものすごくおもしろかったです。時代を象徴する授賞式だったなあと感じました。

また来年の開催も楽しみです。

時代の風を読むうえで、このイベントと「本屋大賞」のふたつは、僕の中では二大巨頭。

ぜひみなさんも、気になる受賞作があれば、聴いてみてください。


いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。