現代社会の最大の欲望は、推し活を楽しんで、できるだけ顔面をよくして、コスパタイパを追求しながら大金を稼ぎ、世界や社会をハックしたい。
人々が求めている剥き出しの欲望は、まさにこれだと思います。
いっぽうで、その真逆に振り切った姿勢、たとえば小乗仏教のような姿勢だったり、ストイシズムのような姿勢だったり、そんなものが、現代の世の中で人気が出るわけがない。
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「良いものが売れるんじゃない、売れているものが良いものだ」
これは、広告文脈でよく語られる話です。
確かに、本当にそのとおりだなと思います。これは、ぐうの音も出ないほど、世間の本質を語ってくれている。
でも、とはいえこの言葉の開き直り方に、僕らはどこか「小さな違和感」を感じるわけですよね。
そんな違和感を頼りにして、大抵の場合「そうは言っても、やっぱり良いものをつくろう」とするのが、真っ当な人間の思考法だと思うのです。
ただ、非常にめんどうくさいのですが、そっちはそっちでまた違うと思う。
今日の本題もこのあたりからになります。
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僕が思う本当に大事な姿勢は「だからこそ、いま売れているものを、もっとより良いものにしていこう」なんです。
嫉妬したり、ひねくれたりせずに、と。
つまり、売れているものにただ迎合するわけでもなく、売れていなくても自分にとって良いものであればそれでいいと開き直るわけでもなく、その両者を統合させたような観点です。
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ここで言いたいことは、先日もこのブログに書いた「スマホやAIの奴隷になりながらも、そのなかでより良いを探っていく」という話にもに通じる話です。
スマホがどれだけ人間に悪影響を及ぼしていても「じゃあ、スマホを今から捨て去ることができるのか?」と問われれば、多くの人の答えはNOだと思います。
もちろん、たとえばヴィパッサナー瞑想のように短期間の合宿中ならスマホ断ちも可能なのかもしれない。
これは、スマホに限らずSNSも全く同様ですよね。
わかっているんです、僕らは。SNSが自分や他者、そして社会全体に対して悪影響を及ぼしていることぐらい。
そして、最近よく語られるようになった海外の有名な実験のように、実際そうやってSNSをやめたら、幸福度はバク上がりするわけです。
でも、あの実験がおもしろがって多方面で語られている理由は、それでも結局、大半のひとはまたSNSに戻ってしまうから。
一度削除した、Facebookのアカウントをもう一度つくりなおしてしまうというところです。
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僕は、ここにこそ「現代の生きづらさ」、その正体があるよなあといつも思います。
自ら幸福感を体感してもなお、それが腹落ちしていてもなお、悪影響を受けて幸福度を下げる方向へと戻らずにはいられない、その衝動。
確かに、そこで改心をしてオーガニックに原理主義的に振り切ることも可能だし、きっとそっちのほうが人間の正しい「悟りの道」であることも間違いない。
それは、誰もが理解するはずです。
そして、少し他人より意志力が強い人たちは、その「正しさ」にしたがって粛々と行動変容もするわけですよね。
実際、現代にはそうやってある種のオーガニック原理主義に振り切って、ローカルで健やかな暮らしをしているひとたちもたくさんいて、実際にその人たちは、本当に現地で幸せそうに家族と一緒に暮らしている。
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でも、やっぱりそのようなスタンスは、どこまでいっても小乗仏教的になってしまうなと思います。
意志力が強く、ストイックに粛々と行動できるひとにはできることだけれど、同時に世間や世界を、無視してしまうことになる。
これは「禁酒」なんかと一緒で、できるひとには一瞬でできることで、その後は一切、その不幸をもたらす原因とは無縁の生活を送ることもできる。
つまり悟ったあとは、世俗のまやかしや誘惑、つまり「悪魔」と一切出会うことなく一生を終えることができるタイプの人々です。
でも、僕の場合は「そうやって、自分さえ良ければそれでいいのか?」という問いが、いつもここでも必ず立ちあらわれてきてしまう。
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逆に言えば、「あたりまえだ、それでいい」という人たちが、小乗仏教やストイシズムの方向に行くわけです。
他人は他人、自分は自分だと、完全に割り切れるひとたち。
そして間違いなくこう主張するはずです。「そもそも、他人や世界全体を救うことなんてできない。もっと現実をただしく見定めろ」と。
たしかに、現実の見立てとして、その事実認識は圧倒的に正しい。
彼らが語ってくれる切れ味のよい論理において、もはや世界の「結論」も出てしまっていると実感します。
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でもやっぱり僕は、鎌倉仏教、つまり「大乗仏教」のほうに漠然とした憧れがある。
一人で悟ったような生活をしてみても、満足することができない。
「行って、返ってくること」が非常に大事だなと思っている側の人間です。
この感覚は、過去に何度もご紹介してきた、吉本隆明の「<非知>に向かって着地する」というあの話です。
「<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。」
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では、なぜそのように考えてしまうのか。
ここにこそ、ほんとうの「慈悲」があると僕は思うからです。
そして、この慈悲というのは、決して「他人」のためじゃない。
徹頭徹尾、自分のためなんだと思います。
本当にこれは綺麗事でもなんでもない。100%純粋な気持ちで、自分のため、自己が救われるために、だと思っています。
逆に言うと「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」という原始仏教における真実を、頭だけでなく、身体においても体得できて、自分だけで悟ってみたところで、やっぱりそれだけでは「不完全」だと僕は思うのです。
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もっと端的に言えば、それだけでは、やっぱり自己は救われない。
第4の道としての「抜苦与楽」が、必ず必要になると思う。ここで初めて他者、つまり「共同体」の存在がそこに立ち現れてくる。つまり、世界そのものになるのです。
そして、そこにこそに、ほんとうの菩提の道があると信じてやまないんですよね。これは論理ではなく、完全に感覚的な問題です。
でも、その慈悲の過程こそが、人生だと言っても過言ではないと僕は思っている。
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じゃあ一体、その抜苦与楽とは何なのか。
こちらも過去に何度も語ってきた「煩悩即菩提」、まさにそんな煩悩こそ、既に菩提に至っている状態であるということ。
それを証明したいし、それを探る道を他者と共に歩みたいなと思うのです。
そして、だからこそ、人々が自然と手が伸びてしまうもの、それがないと生きていけないというものを、現代であればスマホや推し活を、ただただ否定して、その真逆に振り切って、自己を満足させてしまうわけでもなく、世間や他者が中毒的に没入しているものを、そのまま肯定するわけではない、第三の道をたどりたい。
つまり「売れているものが良いものだ」という形で、思考を停止させてしまわないこと。
他者や世間の煩悩も、ちゃんと肯定する。
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そのうえで、その裏の裏、僕らが本当に求めているものを、他者とともに真剣に探してみたい。
「わかるよ、便利だもんね、魅力的だもんね。そのうえで、もしかしたら本当に求めているのは、これ”も”じゃないですか?」と添えてみたい。それが裏の裏。
そうやって、いま売れているもの、世間から受け入れられているものを直に観察して、をもっともっとより良いものにしていこう、って思うのです。
現代でニーズがあるということは、少なくともどこか芯は食っているはずですから。
だとすれば、それを一方的に否定したり、ただただそれを鵜呑みにするわけでもなく、その先にある「より良い」を模索したい。
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まさにこれは、ほんとうのさいわい、を探すような旅です。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のなかで描かれていることです。
文学紹介者・頭木弘樹さんは、あの物語のなかで主人公のジョバンニとカンパネルラのすごいところ、つまり作者・宮沢賢治のすごいところは、「ほんとうのさいわい」を探し続ける姿勢だと、ご著書の中で書かれていました。
僕なりに意訳すると、どこかの停車駅で、これこそが「ほんとうのさいわい」だと、下車してしまうのではなく、「ほんとうのさいわい」らしいものが見つかったときにでも、そこでもう一度「ほんとうのさいわいとは何か」と問い直す胆力があること。
つまり、問いに対する答えよりも、その問い続ける過程こそが、一番大切であると認識しているわけですよね。
強いて言えば、一生目的地や終着駅にたどり着かないこと、すべてが途中停車駅であるということを自覚すること、それが「ほんとうのさいわい」なんだろうなと思います。
そのような終わりのない過程や道程、それ自体を大切にしていきたいなと思う。
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ただし、最後に付け加えておきたいのは、この姿勢というのは本当に全く伝わらない。
既に悟っているひとたちからは、「はやくこっちにおいで!いつまで世俗にまみれているの!人生は短いんだよ!」と言われてしまうし、
慈悲深く接してようとしているひとたちからも「えっ、何言ってんのか全然意味わかんない。いいからもっと推し活と祭りを楽しみましょうー!」ってビールジョッキ片手に言われてしまう。
どちらからも、自らのスタンスは理解はされずに、このひとはバカだなあと両者から蔑みの目で見られる。
でも、それでいい。
煩悩即菩提と、抜苦与楽。その過程こそが、少なくとも僕が今回の人生で追い求めている「慈悲」がある。
宮沢賢治の名言でもあるように、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というのは、自分にとっても、真理だなと本当に強く思います。
たとえ、それは完全に絵空事であって、世界が「世界」である以上、絶対にこれからも起き得ないことだとしても、それを追求しようとする姿勢の中にしか、個人の幸福はありえない。
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あとは、どこまでやり切れるのか。ここまでたどり着いたら、あとはちゃんとやり切りたい。決して後悔はしたくない。
僕の人生最大の”執着(終着)”は間違いなくここにある。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
