最近、Wasei Salonの中で立て続けに、ファミレスの話題を目にしました。
ひとつは「なぜかファミレスが好きで、ファミレスでしかできない仕事がある」というお話。
もう一つは「ファミレスでは、全く違う属性の人たちが当たり前にすれ違っていて、でもどこかしらで繋がっているように勝手に感じる時がある」というお話。
これはどちらも深く共感するところで、都会のファミレスという空間は、いつも本当に不思議だなと感じます。
何がと聞かれると、うまく答えられないけれど、ものすごくアンビバレントな空間なんだろうなあと。
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決して、同時に存在しそうにないものが、ファミレスにはちゃんと同時に両立している。しかも、それらは決して交わることなく、お互いに独立して存在している感じなのです。
今日はこのあたりの感覚を、もう少し丁寧に深堀りしてみたいなと思います。
なぜなら、ここに日本人的なコミュニティの傾向、なおかつ現代を生きる僕らが本当に求めているコミュニティのヒントがあると思うから、です。
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この点、どうしても僕らは、「同質性を高めるか、それとも個人性を高めるか」そのどちらかに振り切りがちです。
わかりやすいところだと、共同体主義と個人主義みたいな対立ですよね。
それぞれにメリット・デメリットはあって、共同性を追い求めると、人間関係がめんどうくさくなりがちだし、個人性を突き詰めると、自己責任論や孤立に向かいがち。
でも、都会のファミレスという空間には、お互いに無関心でありながらも共にいられる安心感がある。そんな特有の雰囲気が、本当にいつも絶妙だなと思われます。
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そして、この都会の匿名性における一体感や安心感って、いま間違いなく求められている。
そして、それこそが都会のダメなところ、東京砂漠だと言われる一番の要因でもあり、批判されがちな部分でもあるのだけれど、でもそれを追い求めてしまうのが現代人でもあるわけですよね。
様々な文化的、歴史的背景を踏まえたうえで、それが心地よい身体になってしまっている。
言い換えると、現代人にはムラ社会的な一体感は不快感のほうが大きいけれど、孤立してしまうとそれはそれでさみしい、というような。
そのアンビバレントな感情を内包してくれる空間が、ファミレス。
だから僕らは無意識に都会のファミレスに時々行きたくなってしまうし、そこでしか感じ取ることができない「世間」みたいなものも同時にあるんだろうなと思うのです。
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以前、写真家や文筆家としてご活躍されている古性のちさんが、ご自身のnoteのなかで、「コミュニティは、安心してひとりぼっちになれる空間」という表現を書かれていましたが、これが本当に言いえて妙だなと思いました。
まさに「群れずに、群れたい」ということを実現できる場所として、コミュニティを定義されていた。
これって本当にそうなんですよね。
どうしても、コミュニティというのは、外から見るとなんだかやたらと群れているように思われるのだけれども、実際にはそうじゃない。
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内側においては、みんながその囲いの中で安心してひとりぼっちでいられる。
丁度、家族が家の中で、それぞれに安心して、自らの趣味や活動に没頭できているように、です。
それは、家という空間を共有しているからこそ為せる技でもあり、それと似たようなことがクローズドのコミュニティの中でも起きているなと思います。
もちろん、Wasei Salonもそう。
むしろ、群れているとバカにしてくるようなタイプの人たちが、異業種交流会や懇親会のような場所で、ひとり孤立しないようにと必死になって知り合いを探しているときのほうが、群れようとしている場合も多いなと感じます。
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だとすれば、どうやってこのような「安心して一人ぼっち」になれる状態を実現していくのか。
これからの時代の新しい中間共同体を考えるうえでも、とても重要な論点である気がしています。
そのうえで、都会のファミレスという空間は、非常に参考になる。
最近頻繁に語っている「スマホを否定せずに、スマホを用いながら『より良い』を探っていく」という話にも、とてもよく似ています。
僕は、ここを丁寧に探っていきたい。共同体主義か個人主義か、そのどちらかに振り切ってしまうのではなく、なんです。
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さて、とはいえ、これが現代人特有の価値観かと言えば、きっとそうじゃない。
日本人の中に、その根底に流れているものはずっと同じ。
言い換えると、同じ諦観が流れているのが、日本人の願いのような気もしています。
何度ご紹介しても、読者やVoicyのリスナーのみなさんに一切刺さっていないことがわかっているのですが、それでも繰り返しご紹介をしてしまう松岡正剛さんの「日本文化の核心は『触れるなかれ、なお近寄れ』である」という話もそう。
そして、全然関係ないと思われるかもしれないけれど、ここで一気に日本神話の話に飛躍させたいなと思います。
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以前もご紹介したことがあるかもしれないのですが、河合隼雄さんの『中空構造 日本の深層』という本に、弁証法的に止揚しないまま、共にいられるのが日本の特殊性だという、非常に興味深いお話が書かれてありました。
以下で本書から直接引用してみたいと思います。
日本の神話では、正・反・合という止揚の過程ではなく、正と反は巧妙な対立と融和を繰り返しつつ、あくまで「合」に達することがない。あくまでも、正と反の変化が続くのである。つまり、西洋的な弁証法の論理においては、直線的な発展のモデルが考えられるのに対して、日本の中空巡回形式においては、正と反との巡回を通じて、中心の空性を体得するような円環的な論理構造になっていると考えられる。
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逆に言えば、何でもかんでも止揚、つまりアウフヘーベンしてしまうのが西洋文化だということですよね。
正・反・合を通じて、第三の新しい価値観を作り出してしまう。
「いや、本当のアウフヘーベンというのはそうじゃない、正も反も、どちらも保存した状態での第3の道を生み出すのが、本当のアウフヘーベンである」と言われることも理解はしています。
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でも、やっぱりそれでもどこか違うと思う。
「どちらも保存したまま」と言っている次点で、それは統合しちゃってるんですよね。ひどく一神教的な考え方だなと思います。
だって、そうやって弁証法を繰り返せば、必ず「ひとつの神」たどり着く。そのための道筋なわけですから。そうやって抽象化していく中で、最後にたどり着くのは、やっぱり一神教の神なわけです。
たとえば、チワワとトイ・プードルを両方保存して「犬」という概念に抽象化して、犬と猫という概念をまた抽象化して「動物」という概念にして…とやっていけば、最後の最後は神になる。
すべてを包摂し、保存するのが「全知全能の神」になるのは当然の帰結です。
そうじゃなくて、河合隼雄さんのお話を、僕なりに解釈すると、それぞれがもう既に、その時点での神なんだ、ということです。
それが八百万の神々的な考え方。
ここって本当に微妙な違いなんだけれど、ものすごく大事な違いだと思います。
そして、実際に河合隼雄さんは、先ほどの文章に続いて、以下のようにも書かれていた。
中心が空であることは、善悪、正邪の判断を相対化する。統合を行うためには、統合に必要な原理や力を必要とし、絶対化された中心は、相容れぬものを周辺部に追いやってしまうのである。空を中心とするとき、統合するものを決定すべき、決定的な戦いを避けることができる。それは対立するものの共存を許すモデルである。
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さて、ここでまた一気に卑近な例に戻りますが、日本のファミレスもこのような対立するものの共存を許すモデルが再現されているなと思う。
お客さんの身分も、職業も、階級も、全部バラバラ。
そこには、独身者もいれば、ファミリーもいる。いろんな界隈のひとたちが、自分たちの界隈にまつわる話で、会話に花を咲かせている。
それが僕らがファミレスに惹きつけられる理由だと思うのです。そこに集まるひとたちが、誰も他者を排除しようとしていない。
それはお互いに無理に同調しようとしていないからです。空間を共有しているだけ。
でも、普段はまったく交わらない界隈同士で一切つながっていないようでいて、でもどこかつながっていると感じられる不思議なつながりもある。
それはきっと「さみしい」から、なのでしょうね。
「さみしさ」のつながりを求める心が、人々をファミレスに足を向かわせる。そこに共通点があるということなんだと思います。
それが電車の中や、ターミナル駅なんかとは大きく異なる点。
言い換えると、一抹の不安やさみしさという負い目が、他者への寛容さ、という一定のマナーを持ち合わせるよう、来店者に促すわけです。
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つまり、都会のファミレスは、そんな「さみしさ」からくる日本人の礼節によって担保されているところがあると感じる。
僕は「敬意と配慮と親切心」って、まさにそれだと思っていて。
そこには共感も同調も、もちろん同情なんかも、一切いらない。
これは、優しいようでいて、一方で非常に冷たくもある。
あくまで、相手(他の集団)を一個人として尊重して、自分とは異なる他者として扱う。
言い換えると、考えや立場がまるっきり異なる相手に対して、共感も同調ももちろん同情もできない相手であったとしても、それでも僕らはそんな相手に対して、「敬意と配慮と親切心」だけは、しっかりと持ち合わせることはできてしまうんだという意味でもあります。
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もちろん、ファミレス的な距離感は、日々のコミュニティ運営においては、少し遠すぎるかもしれないけれど、ここに大きなヒントがあるなと思います。
繰り返しにはなるけれど、アウフヘーベンしない、そのままの状態で、お互いを尊重するということ。決してお互いに「仲間」になる必要はない。
そんな中心が空っぽの、中空構造としての周縁的なコミュニティをつくり出していくこと。
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もし、このWasei Salonも他のコミュニティと少々異なる点があるとすれば、そんなアンビバレント性を参加者全員で必死に守っているからだと思います。
大抵の場合は、アウフヘーベンを繰り返しながら、最終的にはオーナーが一神教のコミュニティを目指すわけですから。
そのほうが西洋近代国家のように、圧倒的なスピードでコミュニティが進化発展をしていくし、経済合理性などありとあらゆる面で理に適っているわけなんだけれど、
今日のブログのこの内容は「絶対にそうはしないし、そうしたくはないぞ!」という決意表明でもあります。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
