最近よく思うのは、AI時代において「発散させていくこと」が人間の役割なんじゃないか、ということです。

これまでの時代における仕事というのは「まとめること」「要約すること」が美徳だとされてきました。

実際、ジブリの鈴木敏夫さんも「仕事とは整理整頓だ」と語っていて、僕自身もいまだにその言葉をずっと座右の銘のように大事にしています。

でも、これからの時代、その表面的な解釈では足りなくなってくる。

むしろ、整理整頓をAIが代替するようになった今、人間が担うべきは、もっと別の“編集”なんじゃないかと思うようになりました。

今日はそんなお話です。

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この点、僕らがかつて「編集」と呼んでいた仕事の多くは、形式的な情報処理がメイン。

タスクを分類して、スケジュールに落とし込んで、伝わりやすい言葉に要約していく。そういった「形式」の編集は、すでにAIの得意分野になりつつある。

でも、本当の意味での編集、つまり“情報化としての編集”は、まだ人間の仕事として残っている。これはまだまだAIにはできないことです。

そして、この「本当の意味での整理整頓」というのは、情報化のほうであり、つまりもう「情報化としての編集」しか価値を持たない。

逆に言えば「情報処理としての編集」にはもうほとんど価値がなくなってくると思うんですよね。

そんな形式的で表面的な整理整頓は、すべてAIが担うようになる。

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じゃあ、僕らはどうすればいいのか?

結局、鈴木敏夫さんのような「編集の神業」ができるひとしかこれからは生き残れないのか。

僕はそうじゃないと思っています。

冒頭にも書いたように、押してダメなら引いてみろではないですが、むしろドンドンと発散していけばいい。

この話はきっと、逆方向から考えるとわかりやすいと思っていて。

そもそも人間はなぜ、発散を避けがちなのか。

それは、あまりに散らかしてしまうと、手につかなくなるからですよね。仕事においては、いかに行動に落とし込むか、実践に落とし込むかが重要視される。

どこまでもブレストを続けていくと、収集がつかなくなってしまったという経験は、誰しも経験したことがあるかと思います。

楽しそうなアイディアが山ほど出てきたとしても、じゃあこれは一体どこから手を付ければいいの?というような混乱が起きてしまうというのは、本当にブレストあるあるだと思います。

そして、この「発散しすぎると収拾がつかなくなってしまう」という不安やおそれのような感覚があるから、無意識のブレーキをかけていたのだと思います。

喩えるなら、アイデアの山を夢中で登ったものの、気づけば降り道が見えなくなって立ちすくんでしまった、というような感覚です。

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実際にそうやって困ってしまうひとが続出するから、仕事術系の本にはタスクの細分化のノウハウだったり、マインドマップみたいなものだったり、整理整頓に適した仕事術が頻繁に掲載されているわけで。

そしてどちらかと言えば、行動に落とし込む、コンテンツにまとめるのが得意な人が、仕事人として重宝がられた。

けれど今後は、その“具体化”や“整理”の多くが、AIの得意分野になっていくのは間違いない。

人間はむしろ、それ以前の“混沌”にとどまる勇気を持つことが求められるようになるのではないかなと。

だからこそ、「発散」することに対して抱いていた無意識の壁みたいなものを、一度完全に取っ払ってみることが重要だと感じています。

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そんな中で、発散の才能を持つ人として真っ先に思い浮かぶのが、Voicyでごも最近よくご一緒している最所あさみさんです。

彼女の一人語りのPodcast番組なんかを実際に聴いてみてもらえると、すぐに理解してもらえると思うのですが、ひとつのテーマを決めて話し始めると、一切休憩することなく、90分ひとり喋りを続けることができてしまう凄まじさ。

ときには、収録アプリが落ちていることさえ忘れて、話し続けてしまうほどです。(実際収録が途中で切れていた回もありました)

これが本当にいつもすごい発散力だなあと思うんですよね。

そして、もっとすごいなと思うのは、そこにちゃんと内容も伴っていて、ずっと思考が深いままであること。

大抵の場合、脱線をすると話の密度というか解像度みたいなものはガタッと落ちてしまいがちなのに、最所さんの場合は、その解像度が一切落ちない。

普段からの守備範囲の広さがとても良く伝わってきます。

きっと、仕事だけではなく日常生活の中でも、普段から「考える」という訓練を積んでいるからできることだと思いますし、それを無意識のうちに日々行っているから、余計に思考が深まるのだろうなあと。

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実際、最所さんと一緒に話していると、とにかくドンドンと話が転がっていきます。

だから、最所さんとお話していると、途中でお話を中断することがなかなかできないんですよね。

ちなみに、いつものVoicyも1時間程度で僕が強制的に切ってしまってはいるけれど、収録されていない部分を含めると、毎回お会いするたびに5時間〜6時間近くお話している場合が多いです。

しかも、一切変わらないテンションで話し続けているので、あの内容がそのまま5時間以上続く感じ。

その話題の展開についていくだけで僕なんかは、脳がへとへとになってしまうのだけれども、最所さんはいつもケロッとしています。

でも、それを一緒に体感すると、それだけで1週間ぐらいは考えたい問いやテーマを与えてもらえるから本当に素晴らしい才能だなあと思います。

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で、きっと、この発散する能力が、AI時代にはこれからはもっともっと求められる。

従来はカンタンには要約できないし、散らかりすぎて、逆に扱えないものになるから、要約しやすいまま、つまり脱線しないままに話すことが求められていたけれど、でももうそんな配慮は完全に不要になりました。

録音、録画だけしておけば、あとはAIが勝手に要約したり、勝手に切り取ったりして発信してくれるようになるわけだから、そこに身を任せれば良い。

そして、そうやって発散をし続けているうちに、気づけば「エウレカ!」って叫びたくなるような「情報化としての編集」がふいに訪れるんだろうなあと思います。

ここも本当にめちゃくちゃ重要なポイントだと感じています。

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最所さんと過去に行った配信回の中で言えば、村上春樹について一緒に語ったときの状態なんかは非常にわかりやすかったと思います。


あのような話のオチは、決して狙ったわけじゃない。たまたま、話の展開的にふいに訪れただけです。

だから、「エウレカ!」というような腹落ち感や発見した感覚というのは、訪れるかもしれないし、訪れないかもしれないし、それは誰にもわからない。

でも、いつまででも一緒に話し続けて、その対話みたいなものが継続している限りにおいては、その可能性だけはしっかり続いていくということなのでしょうね。

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僕がよく観ているゲンロンカフェの動画なんかは、まさに哲学的な問いにおいていつもそれを実践しているなあと思います。

きっと、アメリカで大流行しているジョー・ローガンのPodcastなんかもそうなのだと思います。

もちろん、脱線したりする中で本当にただの雑談や、そのひとの人柄やキャラクターがなんかも同時ににじみ出たりもしてくるわけです。

以前、ゲンロンカフェで驚いたのは、そうやって長時間対話をする中で、AIの第一人者の松尾豊さんが、ひょんなことから、各地域ごとのうどんの違いについてアツく語り始めて、本筋とは完全にズレていたのに、それが妙に未だに印象に残っています。

そして、あの話を聞いてからは、より一層僕は松尾先生のことが好きになり、AI分野においても完全に信頼するようになりました。

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2時間でも3時間でも話し続けて、テーマもドンドン転がっていきながら、気づけばその中で身体や五感から湧き出てくるような、それこそ腹落ちして、肚で理解したような感覚としての「情報化としての編集」が行われる瞬間が、ときどきやってくる。

次の時代に、僕ら人間が狙うべきはここなんだろうなあと。

そうなってくると、無理やりアテンションを獲得し続ける必要もなくなってくる。

とにかく膨大な「撮れ高」さえ確保しておけば、あとは情報処理としての編集は完全にAIにお任せしてしまえば良いわけですから。

なんなら、人間はずっと長野にあるnagereのような素敵な一棟貸しの宿にこもって「合宿」だけをしているだけでもいいというような状態が訪れるのかもしれない。

そうなったら、古代ギリシャのように、いつまでも終わらない対話をし続けることこそが、人間のお仕事なりそうです。

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とはいえ、誰もが延々と話し続けられるわけではない。

終わらない対話が苦行だと感じるひともきっといるだろうし、発散し続けるにはそれなりの体力と訓練も必要なわけです。

だからこそ、僕自身も「考える力を養う訓練」にもっともっと注力していきたいと思っています。

それはなかなかにむずかしいことかもしれないけれど、そろそろ今日語ったようなパラダイムシフトは、時代的にやってきそうな気はしています。

もしくは完全に真逆に振り切って、俳句や短歌のような最初からめちゃくちゃ凝縮されたコンテンツを作成し、それをAIに解凍してもらうというような。

こっちはもはや、魔法や呪文、アートの領域。その2極化が起こりそうな予感がしています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。