昨日、Wasei Salonで開催された小説『カフネ』の読書会で、とても印象に残るやりとりがありました。
https://wasei.salon/events/49db58672de5
それは、「相手が差し出してくれた“好意”や“おせっかい”のようなものって、本当に“悪”なんだろうか?」という問い。
このやりとりを通じて、あらためて「食」という行為が、いかに“贈与”の起点であり、他者との関係性を映し出す鏡なのかを考えさせられました。
そして、ふと感じたのが、最近どこでも聞かれる「苦手な食材はありますか?」という問いへの違和感。
今日はその違和感から始まり、「共に味わう」という行為の本質について、このブログの中でも丁寧に考えてみたいと思います。
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さてこの点、近年は外食なんかをすると、どのお店でも必ず最初に「アレルギーはございますか?」「苦手な食材はございますか?」と聞かれることが当たりまえとなりました。
でも、僕はそれに少し違和感があって。
アレルギーは、百歩譲って確かに命に影響がある場合もあるからいいとして、「苦手な食べ物」は聞くのは本当に必要があるのだろうかと。
それよりも、「あなたがいいと思ったものを、そのまま出してよ」と思ってしまう自分がいるんです。
もしそれが僕の苦手なものだったとしても、あなたが“良かれ”と思って差し出してくれたなら、それをありがたくいただきたい。
それこそが“食としての贈与”だし、“他者がつくってくれたものを中心にしながら、他者と共に食卓を囲む”ということじゃないかなって。
でも今は、食べる側が完全に神様みたいになってしまっている。
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そして、そのようなやり取りが当たりまえとなり、その要望がめんどうくさすぎると、相手をイラつかせたり、ムカついかせたりしてしまうから、「嫌だったら自分で作れよ!」「他のお店へ行けよ!」という、手のひらを返したような、つっけんどんな態度になってしまうわけですよね。
外食に限らず、家族やコミュニティの中でも、似たような“断絶”が起きているように感じます。
つまり、良かれと思って相手に聞いていることが、結果的に両者の間に深い溝をつくることになっているのではないかと思うのです。
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以前もご紹介しましたが、この今年の本屋大賞を受賞した『カフネ』という小説を読んでいて、僕が強く思うのは、現代版のアンパンマンみたいだなと思う。
改めてどういうことかを説明すると、アンパンマンって「いま目の前にいる人の飢餓を救うこと」が正義の象徴として描かれている存在ですよね。
でも、今の時代、僕たちは良くも悪くも“実際の飢餓”からは救われている状態に置かれているひとが大半なわけです。
お腹が空いても、コンビニへ行けば安くて手軽な食べ物がすぐ手に入る。
それでも、なぜか飢餓”感”はなくならない。
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身体の「疲労」とは別に、心の「疲労感」が存在することと同様に、身体的な飢餓は確かに克服されたけれど、物理的な空腹とはまったく別の心の穴のようなものが、ずっと残ってしまっていると思うんですよね。
で、そんな「飢餓感」のほうを埋め合う現代的なアプローチを物語で提案しているのが、この『カフネ』という作品だと思うんですよね。
だから僕にとっては、現代版アンパンマンに思えてしまう。
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で、そんな心の飢餓感を補おうとするとき、足りないことは「食卓を囲むこと」だと思うのです。
それは言い換えると、食としての贈与を、お互いに正しく受け取り合うということができていないから、飢餓感は起き続けているとも言えそうです。
相手を慮ってばかりいて「苦手な食べ物を聞く」という行為自体が、逆に僕はこの飢餓感を加速させているように思う。
じゃあ、この飢餓感を一体どうやって埋めるのか。それが「共に味わう」だと思います。
他者と共に味わう、その味わい方のスタンスや心持ちようの問題だと思うのです。
「食べる」という行為ほど、客観的には本人の内情はなかなかわからない。外形的に見れば、食べ物を口に運び、咀嚼して飲み込んだという同じ行為だとしても、食べている本人の意識の向け方次第で、その意味合いは180度変わってしまう。
たとえば、スマホで動画を見ながら食べていたら、食べていることさえ忘れる人もいれば、味覚に全神経を集中させて、味を探しに行く、迎えにいくということもありえて、それを作品化したのが『孤独のグルメ』のような作品。
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で、今の問題は、「他者とともに、どうやって味わうか」ということだと思うんですよね。
その時に、苦手なものがあってもいいじゃないか、それこそが同じ食卓を囲むコミュニケーションの本質じゃないかと僕は思うわけです。
ここが今日の一番の主張でもあります。
たとえ苦手なものが出てきたとしても、それも含めて食卓を囲み、他者と共に食べること、味わってみようとしてみることに意味があるはずですし、そこにこそ「飢餓感」を克服するためのヒントが眠っているように僕は思うんです。
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だって、アンパンマンは、アンパンしか出せないわけですから。
お腹を空かせて泣いている子どもが、「アンパンじゃなくて、カレーパンが良かったよ!」と言ってみたところで、アンパンマンにはどうしようもない。
だとしたら、アンパンマンから、どうアンパンを受け取るかが僕らには問われているわけですよね。
もちろん、その施しは不施行みたいなものであって、アンパンマンもそれによって同時に救われている。
にも関わらず、アンパンマンにそれでも「カレーパンのほうがいい!」って文句を言うなら、あの菩薩のようなアンパンマンでさえも、「じゃあ、もう知らん!自分で作れ!もしくはカレーパンマンのところにでも勝手に行けば」!ってなってしまう。
それはやっぱりダメでしょう、どう考えても。
目の前にあるものを共にシェアする感覚。相手が良いと思うものを、自分の価値基準は一旦カッコの中にいれて、ありのままに受け入れようとする感覚。
そうやって「それでも私たちは、今日も共に食卓を囲む」というか感覚が、本当は今とても大事だと思うのです。
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「あなたがいいと思ったものをありのままに受け止めたいから、そのまま出してください。私はそれを受け取りたいです。たとえ私が苦手だったとしても。」
そんな単純なことが現代ではものすごく言いにくい世の中だし、提供する側からもやりにくい世の中になってしまっている。
お互いに相手目線を持ちすぎてしまう手前、余計なエクスキューズが必ず挟まれてしまうが、現代社会。
とはいえ、何でもかんでも相手にカスタマイズされた最適なものを出すというのは、そんなのはもう完全にAIのお仕事になってしまうわけです。
料理ロボットも完成すれば、本人に完全に最適化された味、最適な栄養の完全栄養美味食みたいなものは、もうAIがつくってくれてしまう。
だとすれば、人間の役割は「相手にとっては苦手かもしれない、未知かもしれないもの」を、相手との信頼関係を担保にして、それを架け橋にしながら共に味わえること。そうやって一緒に”飛べること”がこれからは本当に大事になってくると思います。
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で、ここで思い出すのは、ブッダの話。
仏教の逸話の中で、ブッダが厳しい修行を終えた後、村の娘・スジャータから乳粥を差し出され、それをありがたく受け取って菩提樹の樹の下で「悟り」に至ったという話があります。
それまでの厳格な教義からすれば、その差し出された乳粥は本来ブッダは口にしてはいけないはずのもの。でもブッダは、それをありのままに受け取って、味わったわけですよね。スジャータの慈悲と共に。
そして、そうやってありのままを受け取った瞬間に「悟る」わけですよね。
あの逸話なんかも、まさに“適切な邪道”だったんだろうなあと思うんです。
そしてブッダの最期のときもまた、ブッダは托鉢で振る舞ってもらった食事を拒まずに食べて、その食中毒が原因で亡くなったとも言われています。
それは紛れもない死であると共に、でもその瞬間にブッダは涅槃に入ったとも言えるわけで。
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つまり、ブッダは悟りの瞬間も、涅槃に入る瞬間も、相手の好意や相手の想いみたいなものを込みで、目一杯”味わった”わけですよね。
だから本当の意味で悟りの境地、涅槃の境地に到達できた。
食中毒になってしまったときだって、実際には食中毒になるとわかってそれでも食べたという話らしいです。
ありがた迷惑なことをされたときでも、それでも共にいるためには?を徹底して考え抜いたのがブッダでもあったのだと思います。相手の不施行を決して妨げない。もちろん、自分の中の八正道にも見事に従った結果だったのだと思います。
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ブッダほどのことはできなくても、それでもやっぱり、そうしたあり方を、僕はもっともっと大事にしていきたい。
ありがた迷惑や、相手の善意の押しつけだとしても、感情的にスパッと断ち切らないこと、そのときに必要な距離感や、それでも共にいる、つながり続けるための方法とは何か。
これは本当になかなかに答えが得にくい問題です。たったひとつの正解なんてない。シーンごとに毎回答えは異なるはず。
だからこそ、これからも問い続けたい。『カフネ』という作品は、まさにそうした問いを投げかけてくれる素晴らしい物語でした。
ぜひ直接この本を手にとって読んでみて欲しいなあと思います。Audibleで配信されているオーディオブック版も、本当にオススメです。
いつもこのブログを呼んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/05/20 20:21