日本各地、ローカルの道路を長い時間かけて車で走っていると、その空き家の数に毎回いつも驚かされます。

絵に描いたように朽ち果てた古民家が、本当にいたるところで散見される。

「天空の城ラピュタ」のように全体が蔦で覆われていて、もはやもともとが家だったのかどうかも定かではないような建物も、当たり前のように各地域に存在しています。

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では、なぜこのような民家は、そのような状態になるまで放置されてしまったのか。

よく言われる話は、持ち主が誰かわからない場合が多いから、という話です。

家主が他界し、相続によってその子孫に受け継がれているのだけれども、それぞれがバラバラの土地で暮らしていて、一体誰が持ち主なのかさえもハッキリとしない場合も多い。

あとは、たとえ持ち主がわかっていたとしても、その持ち主がなかなか手放そうとしない事例なんかも非常に多いそうです。

そこには色々と理由があるようで、先祖代々受け継いできた土地を、自分の代で気軽に手放したくはないというような、経済合理性とはまた別の文脈の問題もあるのだとか。

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でも、そのような誰も住んでいない家というのは、本当にみるみるうちに劣化していくわけですよね。

本来は、ここで国家や行政などが介入するべきなのでしょうが、それは絶対にできない。

なぜなら、それはわかりやすく国家権力が、国民の財産を奪うことにつながってしまうからです。単純に言えば、国家の暴力だと見做されるわけですよね。

過去、そのような形で、国家やそれに類似する権力の介入にによって、国民(民衆)の権利や財産権が散々に侵害されてきた歴史があるわけだから、それはさせない、同じ轍は踏まないぞということで、少しでも手出しをしようものなら、不法侵入や私有財産の侵害にあたるように、法律が完ぺきに整備されているわけですよね。

ゆえに、もう完全に家が崩落しかけていたとしても、誰も手出しができないような状態で放置されているような空き家が、日本全国そこら中に転がっているような状態なわけです。

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じゃあ、持ち主が、自分の力でそれをどうにかしてくれるのかと言えば、もはやそのような体力さえ、今のローカルの人々には残ってはいないわけです。

少しでも手を加えて、リノベーションでもして人に貸そうとしてみようとしたところで、そのためにも多額のお金がかかってしまう。

そして、百歩譲ってそこまで頑張って手入れをしたところで、田舎の家賃なんてたかが知れているわけなので、水回りなんかが壊れてしまったら、それを賃貸人の義務によって修繕した瞬間に、その年の賃料で儲けた分が全て飛んでいってしまう。そのようなおかしな自体が起きてしまう。これも賃借人の権利が強すぎるがゆえに起きている不都合です。

一方で、じゃあ更地に戻すために建物を壊してしまえばいいじゃないかとも思うんだけれども、その壊すためにもまた、数百万単位のお金がかかるというような状態なわけですよね。

だから、前に進むことも、後ろに戻ることもできず、ただただ放置せざるを得ない状態が長く続いているというのが現状です。

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で、国や行政は、それがわかっていてもなお、やっぱり自分たちからは介入ができません。

「ここまで悲惨な光景が広がってしまったら、もはや国家権力が介入するしか仕方ないよよね」と国民に思われる時期まで、つまり極端にわかりやすいところで言うと、大きな地震や津波に襲われたような光景になるまで荒れ果てるまでは何もできない。

そのような状態になって「さすがにもう、これは国が救わないとダメでしょう」というような国民のコンセンサスや民意が整うタイミングまで、黙って淡々と待っているような状態なんだろうなあと思います。

そのような状況をひたすら心待ちにしているような状態がまさに今であって、ここ10年ぐらいの日本各地の過疎地を中心とした空き家の現状なのだと思います。

最近は、少しだけ行政が空き家の古民家に介入してもいい要件が緩和されたらしいのですが、それでも根本の部分は何も変わっていません。

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本来はもっともっと早いタイミングから他者が介入することができれば、そのような古民家にも使いようはあったのかもしれない。

でも、そうなると中国のようなことが起こると懸念するひとたちもいて、そうすると、恣意的な権利の濫用もまた起こると危惧されるわけです。

中国のような独裁に対する危機感や過去の反省があるからこそ、持ち主の側の権利が日本では本当に強く守られてしまっている。

それこそが民主主義であり人権擁護派の考え方であって、何度も繰り返しますが、それが間違っているわけでは決してないのです。

このような振り子の構造というのが、いつも本当にむずかしいなあと思います。

歴史を振り返りつつ、同時に今の現状を見れば、そのどちらの考え方も決して間違っているわけではないですから。

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だからこそ、もっともっと上のレイヤーでお互いに理解し合わなければいけないんだろうなあとも思います。

さもないと、いつまでたっても後手後手に回って、完全に手遅れになってしまう。

法の趣旨に立ち返ることの重要性みたいなものが、きっと今こそ重要で。

そして、お互いに権利を濫用しないことが本当に大事なんだろうなあと。まさに奪い合えば足りぬ、分け合えば余るみたいな話です。

具体的には自分が得をするためではなくて、町全体が、集落全体が、本当に生き残るためにはどうすれば良いのかを、共に考える必要があるんだろうなあと。

個人VS行政の関係性に終止するわけではなく、です。

もちろん、それでもお互いの利益や自由がバッティングすることは間違いない。

良かれと思って行ったことが、誤解などを生じさせる場面もあるわけだから、そこでは丁寧に対話をしていく必要もあるのでしょう。

そして、昨日も書いたように、あえてそれぞれの視点をズラすことも、とっても大事なことだと思います。

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なんにせよ、明確な答えが見つからず、ここまでダラダラと引き伸ばしになってきたわけですが、2025年問題も目前にして、本当にもう待ったなしのフェーズに入ってきているなあと、実際に現地へ行くたびに強く思います。

本来は、もっともっと早いタイミングから誰かがリスクを取って、それを実行しないといけなかった問題でもあるはずなんだけれども、とはいえ、今さらながら過去を後悔してみたところで遅い。

それよりも、完全に手遅れになるまえに、次なる一手を打つこと。問題は、この部分を一体誰が担うのか、です。

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お上が動くのを待っていたところで、お上は助けられない構造上の理由が、そこに明白にある。だとすれば、民間で実行するしかない。

「他に誰もやらないのであれば、自分がやるしかない」というふうに身を乗り出すようなひとたち、具体的には発酵デザイナーの小倉ヒラクさんがいうところの「地方豪族2.0」になろうとする覚悟があるひとたちに、本当にかかっているなあと。

逆に言えば、そのような気概があるひとたちが既にいるエリアと、まだいないエリアとでは、同じような日本のローカル、そして同じような過疎のエリアであったとしても、きっとこれからはまったく違った未来が待っているはず。

日本のローカルの長い道のりを時間かけて車で走っていると、本当にそんなことを頻繁に思うことが増えてきました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。