最初に問いの結論から書いてしまうと、旅の目的地の話をしているのか、それとも、旅の目的地と目的地の間にある何気ない道中、その移動のなかで体験したことの話をしているか、です。
「そこに目をつけるのか!」っていうところに、旅上手のひとたちの真髄がある気がします。
たぶんこれは、僕が拙い言葉で説明するよりも、発酵デザイナーの小倉ヒラクさんの話を引用したほうがわかりやすい。
ヒラクさんご自身が日本全国を旅しながら、発酵にまつわる土地を見に行くという、本当に素晴らしく面白い『日本発酵紀行』という本の中から、旅と移動の関係性にについて言及されている部分を少しだけ引用してみたいと思います。
旅とは移動の連続だ。ある地点から別の地点へ。振り返ってみれば、旅先での用事よりも多くの時間を割くのは移動という行為。出発地から目的地までの無為の時間が旅の本体であるとも言える。新幹線や飛行機、高速道路が発達した現代ですらそうなのだから、近世以前は歩く(あるいは馬に乗る) ことが旅の大部分を占めていたはずだ。険しい山を越え、ぬかるんだ湿地を進み、夏の日照りや冬の吹雪に苦しみながら歩を進め、あるときパッと景色が開け、心地よい風が移動の疲れを癒やす。この移動に伴う体験が、旅の身体感覚を磨いていったのではないだろうか。土地ごとのテクスチャーを認識し、風の流れを読み、季節の変遷を感じ取る。
そうやって道は旅人に世界のことを教えてきた。和歌で土地の名を詠むことは、無数の旅人たちの移動のダイナミクスを文化のなかにアーカイブしていく行為だと言える。つまり、道を歩くということは過去の人々の感覚を追体験するということだ。
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これは本当にそのとおりですよね。
僕がこの話を実践されていると一番強く実感し、とても衝撃を受けたのは、フォトグラファー・土田凌さんの写真を撮るときに意識していることの話を聞いたときです。
土田さんは『生活圏 -函館旧市街編 -』という雑誌をつくったときに、僕の地元である北海道函館市の写真を撮ってくれたんですが、そのあがってきたデータを見て、僕は本当にビックリしてしまったんですよね。
なぜなら、僕がこれまでに見たことがない函館の写真が、そこにはたくさん存在していたから。
そして、土田さんが函館を旅(取材)した意味が、そこに明確に表現されているんです。
「これなんだよな!土田さんの魅力は…!」と本当に強く膝を打ちました。
土田さんに「どうして、こんな写真が撮れるんですか?」と直接本人に聞いてみたところ、「究極、函館山からの夜景は、僕が撮らなくてもいい。既にネット上にもたくさん存在している。そうじゃなくて、その取材の道中を強く意識している」というようなことを語っていました。
これは、まさにヒラクさんの話にも通じるところ。
僕は、これまでたくさんのカメラマンの方々に出会ってきましたが、その中でも圧倒的にセンスがずば抜けているなと思えるのは土田さんで、その視点が全く違うなあといつも感心してしまいます。
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一般的に、多くのひとは「うまい写真」や「他者から評価されるための写真」、「正解の写真」を撮ろうとする。
でも土田さんは、違うんです。
土田さんはたぶん、函館の赤レンガ倉庫のお決まりの構図の写真を、あの取材中には一枚も撮っていない。
そうじゃなくて、誰も見向きもしなくても、自らがその旅をしている最中に心が動いたものを積極的に切り取っていて、だからこそ、函館のような観光地としてもう完全に手垢付きまくりの街であったとしても、ものすごく新鮮にうつるし、地元の人間にもビックリするような写真が撮れてしまうのだと感じました。
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さて、このように、旅の「目的地」そのゴールで一体何を見ているのかは、究極どうだっていいんです。
でも、みんなはむしろ、そっちばかりに注目するんですよね。
目的地の話ばかりしているひとの話は、別に話半分で聞いていても構わない。旅の目的地に関する通り一遍の話をしているひとたちは、旅自体、もしくは「旅をしている私」に恋をしているだけのひとだからです。
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この点、以前もご紹介したことのある名著、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』なんかもまさにそう。
やっぱりあの古典も、目的地に到着した話よりも、その間の移動の話が最高におもしろい本なんですよね。
明治に入ったばかりの日本の原風景が、ものすごく生々しく新鮮に描かれている。その驚きや感動、はたまたその場の情景に立ち込める匂いのようなものまでが自然と感じられてしまう描写がたくさん内包されているわけです。
ほかにも、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『日本の面影』なんかもそうかもしれない。
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そして、仰々しいと感じられるかもしれないですが、今日のここまでの話というのは、「人生」という旅においても、きっとまったく同じことが言えるはずで。
みんな、いわゆる「目的地」ばかりに注目してしまう。でも、それはどちらかというとおまけみたいなものに過ぎなくて。
その目的地までに何があるのかは、その「人生の旅」をしたことがあるひとにしかわからない。
それこそが、実践したひとにだけ見えているかけがえのない景色なんです。
旅の目的地を定めて、旅をすることの意味というのは、まさにここにある。
このときに、身体感覚を優先しているひとは、本当に凄いなあと思います。土田さんの写真なんかはまさにそう。
僕はどうしても、やっぱり先に理性で考えてしまう。
でも土田さんは、何かを考えるまえにまずシャッターを切っている感じがする。それが実際に雑誌で使われるかどうかというのは二の次で、本当にいつも運動神経がいいなあと思います。
これはきっと、哲学者・西田幾多郎の「主客未分の純粋経験」の話にもながるはずで。
目的地に到着したタイミングにおいて、この純粋経験はまず訪れない。
必ず、客体自体を目的化してしまっていて、それを被写体にしてしまっている。その時にはもう、主体と客体が完全に分離してしまっているんです。
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この点、現代の旅は、スタンプラリーになってしまっているとよく揶揄されます。
他者が辿った目的地を判で押すように一通り巡ることが、一般的な「旅」になってしまっている。
そして一番大事な移動中には、次の目的地の情報をスマホで調べていて、車窓の景色さえ眺めないわけですよね。
繰り返しますが、そこには何の意味もない。「行ってきた」という自己顕示欲が残るだけ。
きっと、ここまで読んできてくれた方の中には、結果よりもプロセスが大切だという話にも似ていると思うかもしれないけれど、それともまたちょっと違うんです。
旅というのは「自分自身が変わることに意味があるんだ」という話をここではしたいんですよね。
まさに以前書いた、養老孟司さんのお話につながります。
そのような主客未分の純粋経験から立ちあらわれる瞬間に、自らが素直に出会えること。そして自分自身がその体験を通して、変わってしまうこと。その変わった瞬間を切り取っているかどうか。
自分は変わらないと思い込んでいれば、最終目的地(結果)も、その道中(プロセス)も、どちらにも対して価値は存在しない。
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最後に、じゃあ一体どうすればそのような道中に価値を見出せるのか?
民俗学者・宮本常一の父が残した「旅の十箇条」話が、とても参考になると思うのでこちらも改めてご紹介しておきたいです。
特に、以下の最初の3つは非常に重要な要素だと思います。
①汽車に乗ったら窓から外を良く見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちが良いか悪いか。村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうところをよく見よ。駅に着いたら人の乗り降りに注意せよ。そして、どういう服装をしているかに気をつけよ。また駅の荷置き場にどういう荷が置かれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。
②村でも町でも新しく訪ねていったところは必ず高いところへ登って見よ。そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮やお寺や目につくようなものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ。そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへは必ず行って見ることだ。高い所でよく見ておいたら道にまようことはほとんどない。
③金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。
気になった方は、ぜひ全文も合わせて読んでみてください。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。