昨日に引き続き、朝井リョウさんの新作『イン・ザ・メガチャーチ』の感想を書きたい。
昨日もお伝えしたように、この作品は「推し活」を宗教のように見立てている小説です。
みなさんがよく知るところだと漫画家・魚豊さんの作品である『チ。』や『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』にとてもよく似ているなと思うし、それの女の子版だと想像してみてもらえるときっとわかりやすいかと思います。
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そして、本作の背後にあるメタなテーマは「視野の広さ」について。
具体的には、現代を生きるうえで「視野は広いほうがいいのか、狭いほうがいいのか」という問いです。
少しネタバレを含む可能性がありますが、なるべく核心部分には触れないようにご紹介していきます。
ただし、一切ネタバレしたくないという方は、ここから下は読まないでください。
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さて、今作の中で、視野がとても広くて、「物語」や「コミュニティ」の人間関係に左右されない人間は、とても冷徹なキャラクターとして描かれています。
具体的には、「推し活」を仕掛ける側として、没入感のある「物語」をつくりだし、ファンをはめていく側の、敏腕マーケターとして登場するキャラクターです。
そして、朝井リョウさんは、そんな彼にこんなセリフを語らせています。
「生き方の正解や成功の条件、つまり万人に通ずる物差しが存在すると思われていたころは、自分を使い切る対象の価値が問われていました。こういうことを頑張っているんだね、世のため人のために偉いね、と。でも今は、何が世のため人のためになるのか、その価値観自体が簡単に引っくり返ります。そもそも人類って多すぎるんじゃないの、もっと減ったほうが地球のためなんじゃないのというような、「世のため人のため”自体を疑う声も一つの正解の時代です。この要領でどんな思想も簡単に反転させられるとなると、逆に、ある一つの物事を信じ切るという行為自体に輝きが宿るんです。何もかもが揺らぎやすい今、確固たる信仰対象があり、それに対して自分を使い切っている姿そのものに希少価値が生まれるんです。たとえその対象が社会通念的に無価値だったり、いっそ人類存続に不都合なものであっても、客観性を伴わない猪突猛進さこそ今の時代に機能し得る唯一の物差しなんです。こういうことを頑張っていて偉い、ではなく、よくわからないけどめちゃくちゃ本気で生きてて眩しい。そういう世界に私たちは生きているんです」
いけ好かない感じはありつつも、この言い分は、なんだかとても共感できるところ。
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一方で、もともとは国際紛争や環境問題など、なるべく広い視野を持とうと意識してきて、それを実際に実践してきた意識高い系の女子大生が、ドンドン視野が狭くなっていくキャラクターとして描かれています。
具体的には、このマーケター側に仕掛けられた「物語」に見事に没入していき、「推し活」にどっぷりとハマる存在として描かれています。
しかし、一方で、非常に人間味溢れるキャラクターとしても、描かれてもいるのです。
これまで、社会の「こうあるべき」そんな正しさを自らに押し付けて生きてきて、大学生活はパッとせず、完全に萎びていたのにドンドンとイキイキしてくる様子が、とても詳細に描かれている。
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そして、小説の後半、推し活にどっぷりと浸りきった結果として、以下のような心の声を叫ぶシーンが描かれています。
愛する仲間がいるって、信じられるコミュニティがあるって、なんて心強いんだろう。
誰に何と言われようと、この温かい連帯の中にいられることが本当に嬉しい。
推し活を嗤うような人たちはこの気持ちを知らないまま生きているのだと思うと、それがどれだけ正しさに支えられているとしても、その芝生は青くも見えない。
そもそも正しいとか正しくないとか、そういう問題じゃないのだ。
何をするにも正誤が気になる人は、ずっと誰かのジャッジに目配せをしていればいい。
その世界で正しく在るために、視野を拡げ続け、どの角度から見ても揺るがない真実を見つけ出すまで目を細め続けていればいい。それはそれで、結局そういう物語に取り込まれているだけだから。そういう風に生きなさいという教義を掲げる教会に通っているだけだから。本来の価値とか、本来ならばこちらに熱量が注がれるべきとか、あらゆる正誤の観点から解き放たれた世界で感じられるこの充足を一生知らずに生きていけばいい。
何が人を騙すための物語だ。
結局誰だって、信じる物語を決めて生きているだけだ。
このようにして視野狭窄に陥った主人公のラストの展開、それがハッピーエンドなのか、はたまたバッドエンドなのか。それはぜひとも、ご自身の目で確認してみて欲しいなと思います。
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で、本作を通じて描かれるこのメタテーマである「視野」の問題は、個人的にもすごくおもしろいなと思いました。
確かに、現代の推し活と視野の広さは、見事にリンクする社会現象だなあと。(当然そこには陰謀論も含まれる。)
この点、朝井リョウさんも本作にまつわるインタビューの中で「視野」について、以下のような受け答えをしていました。
私自身、おそらく小説家という職業も影響していると思うのですが、昔からよく「視野を広く持ちなさい」と言われてきたような気がするし、自らそう意識している部分もあります。でも最近よく思うのは、視野を拡大し続け、世界の全体像をしっかり把握しようとすればするほど、思い切った行動に出ることは難しくなる、ということです。
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この問題意識は、なんだかとても共感します。
視野を狭めて「これが世界のすべてだ!」と思いこむこと、人生に「いきがい」を与える場面は、世の中にとても増えてきた実感がある。
具体的には、何かに深く没頭をすること、それはスポーツでもビジネスでも政治でも、オタク活動でも推し活でもまったく一緒です。
大谷翔平選手などは、極端な例としてわかりやすいですが、あのように野球という世界にのみ、視野をグーッと狭めた結果、さらに「二刀流なんて不可能だ、やめておけ」と先人たちに言われてもなお突っ走り、自らが生み出した「物語」を信じた結果、その絶大なる富と名声、そのすべてを手に入れているわけです。
また、少し毛色は違うけれど、トランプ大統領もそうだと思います。
さらに、古くは「現実歪曲フィールド」と揶揄されたスティーブ・ジョブズなんかもそう。
つまり、どのパターンでも、世間一般で語られている”正しい”ことと、真逆の「物語」を信じた結果、社会的に成功しているわけですよね。
これは、とても変な話に思えます。
正しい教育に反旗を翻し、圧倒的な逆張りしている人間たちがとても深い「誇り」と、それぞれの「いきがい」を感じているように見えてしまうのが、まさに今の世の中なのだと思います。
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「人間の頭の中は、宇宙を全体を考えられるから、宇宙よりも広大だ」とよく表現されますが、でも同時に「金魚鉢の水槽の中よりも、狭くなる」ことも同時に可能であり、この可変性が一番の問題なのだと思います。
そして往々にして、世界を水槽レベルにしたほうが、ひとは圧倒的に深く没入することができる。
大ヒット中の映画『国宝』も、思い返してみれば、そのような物語でした。
「この歌舞伎の舞台だけが、自分のいきがいなんだ」と意図的に自らの世界を縮減し、視野を狭めて、悪魔との契約もした結果、喜久雄は「国宝」までのぼり詰めたわけだから。
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で、今日の話は、先日も書いた「批評」と「考察」の話なんかにもつながるなあと思います。
学校で「視野を広く持ちましょう!」と教えられれば教えられるほど、若者たちはそこに強い違和感を抱く。
それだと、うまくいかないジレンマを抱えて、真逆に振り切りたくなるジレンマを抱えてしまう、その皮肉。
でも、そのときに、自分自身で物語をつくり、そこに猪突猛進で取り組んでいける大谷翔平選手いやトランプ、スティーブ・ジョブズ、そしてフィクションだけれども『国宝』の喜久雄のように才能があればいいけれど、
その猪突猛進の先が、作中の敏腕マーケターが仕掛けるように、他者によって意図的に作られた「物語」、つまり悪意のある物語を元にして、自ら星座を描いたように思わされた場合には、推し活や宗教に搾取される「カモ」になりかねない。そんな危うさを孕んでいるわけですよね。
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さて、困りました。
現代を生きるうえで、視野は果たして広いほうがいいのか、それとも意図的に狭めたほうがいいのか。
とはいえ、絶対にどちらかに割り切らないほうがいいと、僕の中のゴーストが囁きます。それでもなお、問い続けたほうがいい、と。
それこそ、僕の中にある宗教”性”がそう囁く。自分の中の「良心の呼び声」が、声なき声によって押し留めてくる。
でも、現代の社会の構造、特に資本主義はソレを許さない方向へと圧力をかけてくる。視野を広く持ち、問い続けようとすればするほど、苦しめられてしまう。
そして、その鉄鎖から解き放たれて、完全に振り切ったひとたちのほうが、なんだかとても幸福そうにも見える(結果が出ている)わけですよね。
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このように現代は、胆力を持ち続けること自体が、本当にむずかしい時代だなと思います。
自分で作り出した物語か、他人が作り出してくれた物語か、何かしらの物語に流されたほうがいい。
そして、その流された先には人々のあたたかな交わりが存在し、つまり何もかもを包摂してくれる「コミュニティ」が待っていることの恐ろしさ、です。
これは本当にどうしたものか。もちろん、本書にもその答えは書かれていません。
だからこそ僕も、引き続き考えていきたい問いだなと思います。
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最後に余談ですが、ここでふと思い出すのは、凪良ゆうさんの小説『汝、星のごとく』で、北原先生というキャラクターが語る言葉。
「自由なんてない。何に群れるかを選ぶ自由があるだけ。それは言い換えれば、どの不自由に繋がれるかを選べる自由があるだけ」というあの言葉です。
これも、全くそのとおりだなあと思いました。
とても絶望的な話に思えるけれど、でもそこには、明らかな希望も同時にあるなと思うのです。
もちろん、Wasei Salonも、そのための「問い続けるため」のコミュニティとして、続けていきたい。
ひとりで抱え込むには重たすぎる問いも、共に、でも別々に歩みながら考え続けること自体は、ひとつの答えになり得るかもしれないとも思うから、です。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
