今日は何か答えがあるような話ではありません。

最近、ふんわりと感じている機運みたいなものに対する所感です。

それをまだうまく言語化できない中でも、ざっくりと書いてみたいなあと思います。

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じゃあ、それが一体どんな話なのかといえば、

「自分の顔の見える距離感の人々に、自分が大切だと思った価値観や、そのテーマの話を丁寧に伝えてみる」って、最近とても大事なことだなあと思うようになりました。

どうしても、現代だと、SNSなど何かしらの拡声器を用いて、広く耳目を集めるようなことになりがち。

でもそんな中でも、自分が良い話だと思った地味な話でも、良い話として、ちゃんと他者に丁寧に共有をすること。

食べ物で喩えるのなら、インパクトある高級とか激辛とかデカ盛りとか、そういう派手な文脈で煽って、多くのひとのアテンションを集めるわけではなく、もっと質素な、でも素材の旨味がたっぷりと詰まった野菜みたいなものを、静かに素焼きで、でも丁寧に提供するみたいなイメージ。

そのほうが結果的に、両者にとっての「豊かさ」みたいなものの発見につながっていくなあと思っています。

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「そんなのは昔からそうだよね」というのも簡単に言えるんですが、意外とこれって時代の流れでもあると思っていて。

そして今日この話を書こうと思った理由も、まさにここにある。

最近の時代の特徴って、あまりにも細分化が進みすぎて、しかもそれが常態化しているがゆえに「みんなが知っている」という情報自体が、本当に減ってきた気がします。

テレビを見る見ないもバラバラで、SNSで流れてくる情報もひとそれぞれ。

趣味や趣向もひとりひとり全く異なるので、会社の隣の席のひとであっても見ている景色が本当に驚くほど違っていたりもします。

それゆえに、日々自分がウォッチしている世界のおもしろいことを伝えるだけでも、一周回って大きな価値が生まれてきたなあと思うのです。

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自分にとってはあたりまえで、普通過ぎることであっても、とても大きな価値がある気付きや発見がある。

そこから生まれてくる問いのようなものが、人と人を紐づけるものがあるなあと思います。

たとえば、昨日のブログなんかもそうですが、自分が聞いていた音声コンテンツでも聞いているひとは、実はかなり少ない。たとえ「コテンラジオ」のような超有名コンテンツだって、日本全体で言えば聞いている人は、ニッチ中のニッチですからね。

であれば、自分が感動したなら、それを素直にシェアしてみるといい。

そうするときっと、「そんなことはもう知っている」ではなくて、「へえ、まったく知らなかった!おもしろい話を教えてくれてありがとう」になる。

昨日、僕がシェアした坂ノ途中の小野さんの話とかも、まさにそのような感覚でみなさんにお裾分けしているような気持ちで書きました。

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で、そう考えると、もはや伝える内容それ自体よりも、伝え方や、相手との関係性のほうがはるかに重要になってくる。

このあたりにきっと、ケアの問題や傾聴の話題、対話の文脈なんかも絡んでくると思うんですよね。

その時には、まず自分が相手の話をちゃんと聞くかどうかのほうが重要で。有益な内容なら、本当にもういくらでも生成AIがつくれてしまうわけですから。

「このひとの話を、私は聞くに値する」という関係値をお互いにいかに構築できるかのほうが、重要になってくるわけです。

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あと、そもそも全方位で届けようとすると、今はコンプライアンスがあまりに厳しすぎる。

現代において、どこからも批判されないようなユニバーサルの発言を目指してしまうと、何も発信できなくなってしまいます。もしくは、SDGsのような何の中身もない本当にペラペラなことを話す以外になくなる。

どんな立場にいる人であっても、必ず他者の足を踏む。足を踏まないことは、避けようとすると、本当に何も言えなくなって、自分の中で溜め込むことになる。

でも「自分が自分であること」や、その自分から見えている景色や価値観はそれほど大きくは変えられないわけです。

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このように私が私であるがゆえに持ち合わせている、自己の暴力性みたいなものを認めることができないジレンマみたいなものにも、ぶち当たる。

もちろん、そこで開き直るのも違うとは思います。

その暴力性のようなものを受けれながらも、どうやったら共に関係値を築いていけるのか、を考えることがいま必要だと僕は思うんですよね。

おじいちゃんが自己の老害を避けようとしても、「若い女の子」に突如変身することができないように、でもそれによって完全に口をつぐんでしまうのではなく、どうやったおじいちゃんは「おじいちゃん」として新たな関係地を築いていき、お互いの気付きや発見を与えあって、そこに豊かさを築いていくことができるのかということのほうが、今ものすごく大事な視点だと思うんですよね。

そうじゃないと、よりおかしな方向に向かってしまうかと思います。

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究極、多くのひとが、少しでも今より「豊かさ」を味わいたいと願っていて、そのための新たな可能性を探っているはずなんですよね。

その基準が、「影響力」とか「お金」とかそういうわかりやすいものしか存在しないことが、現代の問題で。

アテンションの獲得合戦になると、余計にその分野ばかりを煽りがち。

それらを無理矢理にでも提供しようとすると、お客様をバズらせるとか、トークンをばらまくとか、そういった本質からはより遠ざかる方向へと、誘導してしまうことになってしまう。

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それも「お客様が求めているから」という理由でそうなるんだけれど、じゃあなんでお客様がそれを求めているからと言えば、自分自身で「豊かさ」とは何かを真剣に考えたことがないからだと思います。

それが私の求めているものだと思い込んでしまう。じゃあ、なんでそれを求めているのかと言えば、他者がそれを追い求めているからに過ぎないわけです。他者の欲望を欲望させられているだけ。

企業が提供する「商品」としては、お客様が求めているものとして、ただ単にソレを提供することが企業活動としては、正解なのかもしれないけれど、その商品をどれだけ与えても、決して本当の意味で、目の前のお客さんの真の意味での「豊かさ」の発見にはつながっていかない。

「これじゃなかった」の発見、その失敗を増やしていく手助けをしているという意味では、正解なのかも知れないけれど、それはあまりにも遠回りすぎやしないかと思います。

だからこそ、そもそもの「豊かさ」から問い直してみませんか?と、顔の見える人間と人間の関係性や、そのようなことを考えられる場の構築が急務だと思っています。

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そのうえで、そこに集まってくれたお客さん同士を丁寧につないでいくことが、本当に大事なことなんだろうなあと。

お互いが相手の話に真剣に耳を傾け合う関係性をつくりだし、なんでもない話、先ほどの食べ物の喩えに戻るなら、美味しい野菜の素焼きみたいなものを提供し合ったときに、お互いに感謝をし合って、その喜びを素直に共有し会えるプレーンな豊かさみたいなもの。

人々が本当に求めているものはそれでしょう、と僕なんかは思うから。

「いってらっしゃい」ではなく「おかえりなさい」が大事という話にもつながっていく。

ここで何か新たなノウハウを得た気になってもらって、更にまた外に出向いていって幻や幻想、青い鳥を追いかけてもらうんじゃなくて、その豊かさをこの場において本人の力でもって獲得してもらうんだ、という覚悟が大事なんだろうなあと思います。

「私にその力があったんだ」という発見をしてもらうこと。それを強く実感してもらうことが、今本当に大事なこと。

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何か明確な答えがある話ではないのだけれども、世間との大きなズレと、本当の「豊かさ」の意味みたいなものを考えられる場所、本当の意味でそれを共に味わうことができる空間を創出することが、とても大事な時代になってきているなあと思う今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。