これからの社会は、格差がより一層広がっていく方向に向かっていくことは、もう間違いなさそうです。

そうすると、恵まれた側に置かれているひとの中には「どうして自分は恵まれた側の立場に置かれているのか?」という問いが必ず生まれてくる。

そのような問いから目を背けて、「JUSTICE(正義)とは何か?」だけを考えると、ドンドンと言葉遊びのようになっていってしまうような気がしています。

サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』がベストセラーになったあと、頻繁に用いられるようになった「トロッコ問題」の議論のときに、いつも僕が感じていた違和感はまさにここにありました。

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自らの特権性をちゃんと認識することって、本当にものすごく難しいことだと思います。

自分にとってはそれが当たり前のことですからね。

そして、その当たり前の状況は、自らが努力して、正当な対価を支払って手に入れたものだと錯覚してしまう。

でも、それは決して当たり前ではないですし、正当な対価を支払って手に入れたものなんかではありません。

ただ、そのように認識することって、ものすごく居心地が悪いことなのだと思います。

だからひとは、そのような都合が悪い事実からは目をそむけようとして、誤った認識を持とうとしてしまうのでしょう。

具体的には、自分にはその権利があって当然なのだ、というような。

でも、繰り返しますが、本当はそうじゃないのです。徹頭徹尾、それはただの運なのです。

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たぶん多くの恵まれているひとたちは、直感的になんとなくそのことに対して気がついている。

だからこそ、見て見ぬ振りをしてしまうし、当然であることを証明するために、ドンドン高い所に住むようになり、高級車なんかも買い揃えて、身なりもそれ相応の高級なものを揃えようとし始めてしまう。

そうやって、必死で自分が「有閑階級」であるということを、自らが自らに対して証明し続けないと、自己のアイデンティティが崩壊していくような感覚になっていくのでしょうね。

あまり語られることではないですが、有閑階級の有閑階級っぽい振る舞いというのは、何よりも自分自身に見せびらかしているのだと、僕は思っています。

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そのうえで僕は、その特権性があるという事実から、決して目を背けてはいけないと思っています。

事実は事実として、正しく認識する。

その時にたちあらわれてくる義務感のようなものから決して逃げてはいけない。

具体的には、自分は恵まれているのだから、より公正に振る舞おう、礼節を持って他者に接しようと自然に感じる気持ちです。

恵まれた環境にいることによる美味しい部分だけをいただいて、そうじゃないところは面倒くさいからなるべく関わらないようにするというのは、あまりに虫が良すぎる話だと思います。

自分こそが、誰よりも周囲から生かされている存在であって、その使命が課されているのだと正しく認識することができるかどうか。

そのように、視点をひっくり返すことができるかどうかが、恵まれている側にいま強く問われていることだと思います。

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権利があれば、義務が生まれてくるのも当然です。

まさに持てる者の義務(ノブレス・オブリージュ)です。

じゃあ、具体的にはどんな義務が、恵まれている者には課せられているのか。

答えのない問いに引き裂かれる感覚、それでも問い続ける義務だと思っています。

その中で、少しでもより公正に振る舞おうとすること。「公正」なんてものはこの世に存在しないと腹の底から理解しつつもなお、です。

そして、周囲の他者に対して、決して敬意を忘れないこと。

自分には、お金も地位もあるからという理由で傍若無人に振る舞ってもいいなんて思うのはもってのほかだと思います。

誰よりも徹底的に考え抜いて、泥にまみれなければいけない。

それをしてもなお、ありあまる幸福をいただいているのだから。

そんなことを考える今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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