毎年この時期になると、一気に増えてくるのが「期間限定」商品。

実りの秋、旬の食材など「この時期だけ」というのは、もはや人間の中にある遺伝子レベルに刻み込まれてしまっているということなんでしょうね。

その習性にあやかったようなチョコレートなどのお菓子を筆頭に、ありとあらゆる期間限定マーケティングが百花繚乱、咲き誇る時期がまさに今だなあと思います。

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とはいえ、そうやって期間限定という謳い文句で買わされているものは、本当に欲しかったものなのか。

それは胸に手を当てて、真剣に考えたいなと同時に思います。

「いましか手に入らない」という欲望を無理やり捏造されているに過ぎないのんだから。

期間限定のチョコは非常に魅力的で、あたかも今しか食べられないように仕向けられながらも、言うて、タダのコンビニで売っているチョコに過ぎないわけです。

もし目隠しをされて、期間限定ではないもののの中に混ぜ込まれたら、もうどれが期間限定のものかはわからない。

そう考えると、記号と文脈、つまりある種の「物語」を食べさせられているだけに過ぎません。

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この点、やっぱり思い出してしまうのは「秘すれば、花なり」で有名な世阿弥の言葉。

以前もご紹介したことがありますが、世阿弥いわく「花」なんてものはないそうです。

ただ、あるのは「時」との関係性だけ。


以前もこのブログの中でご紹介したことがありますが、安田登さんの『能―650年続いた仕掛けとは―(新潮新書) 』から、もう一度該当箇所を少し引用してみます。

「 花」の重要性を何度も強調している世阿弥ですが、しかし彼は「花といっても、別にこれといったものがあるわけではない(花とて別にはなきものなり)」といいます。私たちはともすれば絶対的な良し悪しがあると思いこみ、そのようなものを追求しがちです。しかし、「そのようなものはない」と世阿弥は喝破します。

ただ、あるのは時との関係性だけ。「時」に合っているものが良いもので、合っていないものが悪いものになる。あらゆることは時機を得ているか、「時」との相対的な関係で決まるというのです。


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どうしても僕らは、何か万人に共通する明確な「人類普遍の真理」のようなものがあると思って、それを必死で追い求めてしまいがち。

でもそれは、どこかに咲いているであろう「まぼろしの花」を探し求めて、彷徨っているような状態です。

でも本当は、世阿弥が語るように、そんな「花」など最初から存在しない。

すべての事柄は「良し悪し」などは存在せずに、常に表裏一体。そこにあるのは「時」との関係性のみ。

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でも人は、どうしても「花」を追い求めてしまう生き物なのでしょうね。

だからこそ、時の為政者たちは「これが、花です、でもこれも一瞬の煌めきであって、まぼろしであり、期間限定で消えてしまいますので、今しか体験することができません、どうぞお早めに」と自信満々に喧伝をして、自らに耳目を集めようとする。

そうやって捏造された花を、本当の「花」だと信じてしまうのが、人間の愚かさでもあり弱さでもある。

でも、やっぱりそれらは幻なのです。

「花」なんてはじめから存在しない。あるのは「時」との関係性のみ。

逆に言えば、自分にとっての最適な「時」を見定めることこそが、本当の意味で「花」を理解するということでもある。

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そのまぼろしのきらめきが、宗教で煽られる場合もあれば、政治の場合もあるでしょうし、「都市(ビジネス)」の場合もあれば、チョコの場合もあるしコンテンツの場合もある。

とはいえ、繰り返しますが、すべては記号と前後の文脈、つまり物語を消費させられているにすぎない。

ストリートカルチャー界のドンである藤原ヒロシのあの有名な言葉「いつまでも    あると思うな    アーカイブ」というように、ストリートカルチャー、もっと言えばドロップカルチャーの餌食になる。

古くは裏原宿のアイテムから、最近はラブブまで、そのすべてが同じ構造です。

逆に言えば、当時の裏原宿文化のすごかったところは「誰も最初から品質なんて気にしていない」ということをハッキリと理解し、それを証明してみせた、記号と文脈に熱狂しているだけだと見せつけたことがすごかった。

こっちが消費の本来の姿だろうと。当時の潮流であった品質重視の百貨店文化に、完全に中指を立てたわけですよね。

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で、僕は、このような「期間限定」マーケティングの手法にひっかかるひとを否定したいわけではないです。

むしろそういうひとは、純粋に素直なひとだなと毎回思います。

他人がつくりだした物語に素直にのっかれるわけですし、「ノリが良い」というのはつまりそういうことなわけですから。

また、「期間限定」がすきなひとは、優しいひとが多い印象です。

期間限定が好きな人ほど、よくも悪くも、付き合いやすいひとはいない。

そして、そんな期間限定商品や、ストリートカルチャーが好きな人同士が相性が良いのは当然で。だって、売主側、仕掛けている側の、催眠術にかかりやすい者同士、なんだから。

ただ、期間限定のチョコと一緒で、春になればそんなことがあったことさえも忘れてしまう儚い物語でもある。

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さて、ここまで語ってくると「期間限定」を欲する自分自身が、なんだか間違っていると思い始める。

でもそれは、明確に違うと思います。

このあたりは、ややこしくて本当にごめんなさいと思っています。

それを欲しくなるのが人間であり、飛びつきたくなるのが人間でもある。他人が欲望するものを欲望してしまうのが人間です。

また、それゆえに限られたパイを巡って奪い合うのも人間。その奪い合う様子をみて、そこにビジネチャンスを見出し、ハックしたり、似たような構造を作り出して金儲けに走るのも、また人間。

それはたとえ、ブッダでもイエスでも同じこと。

だからこそ、ちゃんとそんな”悪魔”と正しく出会えるひとになりなさい、と彼らは静かに説くわけですよね。

「花」が「欲しい」と思うのは人間である以上、仕方のないこと。

その感性を否定し殺していくと、出会えるものにさえも出会えなくなる。究極、ミニマリストの部屋みたいになってしまう。

たしかに、そこには一切の世俗的な欲望が存在しないのかもしれないけれど「欲望に流されず、すべてを去勢してしまいたい」というもっとも巨大な欲望からは逃れられないどころか、それが日々巨大化していくばかり。

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そうじゃなくて、悪魔にちゃんと出会えるかどうか。

そして、今の私にほんとうに必要なものなのかどうか、きちんと見定めることができること。

期間限定も、素晴らしい物語だと認めたうえで「でも、今の私には必要ない」と判断したら、素直に手放せるようになること。

期間限定、今だけしかそれを享受できないと煽られたときに、本当にそれは自分に必要なものだろうか、と自分に問えるかどうか。

それよりも、いつでも開かれている古典的なもののほうが、実は中長期でみたときには、自分の素養や栄養素につながるのではないかと思えること。

将来に振り返ったときに、自分が本当に自分自身に感謝したくなる消費、いや投資はどっちだったのかということを、その時々で真剣に考えてみたいなと思います。

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あとこれは、基本的にはアーカイブ欲から来る「コントロール欲の裏返し」でもあるなと思います。

「えっ、逆じゃない?」と思われるかもしれないけれど、根底は同じもの。

「いつだって触れられるものであって欲しい」と思うからこそ、つまり世界が自分のコントロール下にあって欲しいと願うから、触れられなくなってしまうものへの執着がより一層強まってしまうというジレンマや逆説が、そこに存在するわけですから。

たとえば、Netflixやアマプラとかも、一生かけてもすべてを観切ることができないとわかっているにも関わらず、でもそこに「ほとんどすべてのコンテンツがある」ということに人間は安心感を感じて、そこに毎月課金し続けるわけですよね。

ろくに見てもいないのに、です。

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期間限定に誘惑されてしまうというのも、基本的にはその裏返し。コントロール欲のまた別の形の発露。

そう考えると、こちらも、Netflixとまったく同じ構造、同じ罠にハマっていることにもなる。

つまり、実は同じコントロール欲の表と裏。どちらも、本来は流れ去るものである世界を、自分の支配下に置きたいという幻想から生まれてきている。

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しかし本来、この世のすべては、最初からまぼろしなわけです。

決して消えるものだけが、まぼろしじゃない。今この瞬間だって、まぼろしなんです、本当は。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、です。

とはいえ「情報は一度刻まれたら、一切変わらないじゃないか!」と思うはず。でも、自分のほうが変わってしまう。昨日の自分と、今日の自分はまったくの別人。

つまり、昨日の自分が観るコンテンツと、今日の自分が観る同じコンテンツ、そして明日の自分が観る同じコンテンツはすべて異なる。

同じ川に二度入ることはできない。

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そのことに本当の意味で気づけたら、アーカイブ欲やコントロール欲こそが、まぼろしであることもよくよく分かるはず。

すべては刻一刻と消え去り、消えるからこその美しさ、消えるからこその敬意、消えるからこその一期一会、それこそを味わいたいと思うはずで。まさに、もののあわれ です。

お金払って映画館で観る映画と、ソファに寝転がりながら寝落ちするように観るNetflixの映画、その違い。

そこで流れてくる映像としての情報はまったく同じであっても、どちらがコンテンツとの正しい対峙の仕方なのかは、もはや言うまでもない。

自分のコンテンツに対する向き合い方次第で、まったく別の相互作用がそこに立ちあらわれてくる。

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まぼろしに騙されず「すべてはまぼろしである、もともと」と素直に思えるようになること。

世阿弥の言う通り「花なんてない、あるのはときとの関係性だけ」です。

だとすれば、やっぱり自分にとっての本当の「時」の「花」を見つけること。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。