『風姿花伝』で有名な世阿弥。

「秘すれば花なり」という言葉は、あまりに有名です。

ゆえに僕らは、世阿弥とは「花とは何か」を追求したひとだと思っている。少なくとも僕は、最近までずっとそう思っていました。

しかし、そんな世阿弥が「花」について語っていて、とてもハッとする文章を見つけました。

世阿弥いわく、「花」なんてものはないそうです。

安田登さんの『能―650年続いた仕掛けとは―(新潮新書) 』から少し引用してみます。


 花」の重要性を何度も強調している世阿弥ですが、しかし彼は「花といっても、別にこれといったものがあるわけではない(花とて 別 にはなきものなり)」といいます。私たちはともすれば絶対的な良し悪しがあると思いこみ、そのようなものを追求しがちです。しかし、「そのようなものはない」と世阿弥は 喝破します。     
 
 ただ、あるのは時との関係性だけ。「時」に合っているものが良いもので、合っていないものが悪いものになる。あらゆることは時機を得ているか、「時」との相対的な関係で決まるというのです。     
 
 世阿弥は『易経』を引用していますが、その中にも「 時中」という言葉があります。イエスも「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ伝) という言い方をします。いまがどのような「時」なのかを知り、そしてそれにもっとも適合した判断ができるか、行動ができるか、それこそが「花」なのです。


ただ、あるのは「時」との関係性だけ。

このお話は、本当にそのとおりだなあと思います。

どうしても僕らは、何か万人に共通する明確な「人類普遍の真理」のようなものがあると思って、それを必死で追い求めてしまいがち。

でもそれは、どこかに咲いているであろう「幻の花」を探し求めて、彷徨っているような状態です。でも本当は、世阿弥が語るように、そんな「花」などは存在しないのです。

すべての事柄は「良し悪し」などは存在せず、常に表裏一体。そこにあるのは「時」との関係性のみ。

それは、何度も違う事例を用いながら、この場にも必死で書こうと試みてきたことです。

参照:ギフトと呪いは表裏一体。天才は、天才であるがゆえに苦悩する。

でも人は、どうしても「花」を追い求めてしまう生き物なのでしょう。だからこそ、時代の為政者は「これが、花です」と自信満々に喧伝して、自らに耳目を集めようとする。

そうやって捏造された花を、本当の「花」だと信じてしまうのが人間の愚かさでもあり、弱さでもある。それが宗教のひともいれば、政治のひともいるでしょうし、「都市(ビジネス)」の人もいれば、昨日書いたように「地方(自然)」のひともいるでしょう。

参照:地方礼賛もひとつの宗教。自然に触れてキラキラした顔になっていくことの危うさ。

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でも、やっぱりそれらは幻なのです。「花」なんてはじめから存在しない。

あるのは、「時」との関係性のみ。時を見定めることこそが、本当の意味で「花」を知るということでもある。

このような気づきや発見は、自らの経験や身体性を通して実感していくことでしか磨かれない。

以前もご紹介したとおり、世阿弥いわく、ひとには何をやってもうまくいく「男時」と、何をやってもうまくいかない「女時」というものがあるそうです。

参照:自分がうまくいかない時ほど、他者を支援する。

そんな交互に訪れる「時」を何度も経験しながら、自らの人生の中で痛感していくほかない。

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「何(なに)が花なのか?」ではなく、いま自分は「男時と女時」どちらのタイミングにいて、世の中はどんな時なのかを常に見定める。本当に重要なことだと感じます。

「男時」にいるひとにとっては、いま自分の目の前に咲いているものすべてが「花」のように思えるでしょう。

そして「女時」にいるひとは、まさに他人の芝生が青く見えてしまうはずです。なぜ私の目の前には「花」が咲かないのか、と。

でも、繰り返しますが、花なんてない。あるのは「時」との関係性だけ。自分の中でも強く実感したことだったので、ブログにも書き残してみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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