それは、物質的に豊かになることによって、自分が幸福になると信じているからですよね。

まさか「不幸になるために裕福になりたい」と思っているひとはいないと思います。

高級マンションに住み、高価な食事を食べて、ありとあらゆるものを装飾(物質)で満たしていけば、自分が認識するこの世界(人生)が豊かになると信じている。

だからこそ、近代や西洋の文化はとにかく飾り立てるわけです。より多く、より貴重な、より新しいものを求めて。

そうやって目の前に置くもの、摂取するものを変化させていけば、自己の認識もポジティブなものに変わっていく。

そうすることが、この私が幸福になれる唯一の方法だと信じて。

馴染みのあるものすごく単純な話だと思います。

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しかし、カントの「コペルニクス的転回」や、西田幾多郎の「純粋経験」など、東洋でも西洋でも過去の偉大な哲学者たちがたどり着いた答えを眺めてみると、どうやらそれは誤解のようです。

「認識が対象に依存するのではなく、対象が認識に依存する」

「個人があって経験があるのではなく、経験があって個人がある」

これらは言い換えれば、まず経験や認識が先立って存在し、対象や個人(世界)はあとから思考によって生み出されたものに過ぎないのだと。

すでにそこにある「絶対的な世界」を我々は感じ取っていると誤解しがちだけれども、実態はその真逆で、我々の経験を通してはじめて、この世界は生まれているようなのです。

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だとすれば、ですよ。

我々は日々、自分たちが到達したいはずの境地(ex.幸福になりたい)に対して、ものすごく真逆なアプローチを行なっていることになります。

目の前に認識したい世界を、物質として並べたてる西洋的なアプローチは、むしろ満たされることからドンドン遠ざかる(思い描く理想と、目の前の現象がいつまでも異なるのだから当たり前)。

一方で、思考や認識で補って初めて十二分に感じられる日本的な水墨画や枯山水のようなアプローチのほうが本当は正しい。

水墨画は、もっともっと強く圧倒的に自然を感じたいからこそ、そこに余白を残しました。

枯山水は、もっともっと強く水を感じたいから、あえてそこから大胆に水を抜いたわけです。

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認識から世界が生まれると考えれば、このアプローチのほうが正しいということは、なんとなく理解していただけるかと思います。(これらもあくまで補助輪的な役割でしかないけれど)

でもきっと、現代を生きる多くの人々は、これらの日本的な文化を目の前にして、

「昔はものが少なかったから、質素なもので我慢するしかなかったんだよね。今みたいに物が溢れる時代じゃないのだから仕方ない。」

「でも、今はものがあふれて豊かな時代になったのだから、実際にものを手に入れたほうがいいよね。現代に生まれてよかった!」と。

しかし、ここまで読んでくれた方は、この発想がどれだけズレているのかを理解してもらえるはず。

そもそも物の量なんて最初から一切変わっていないのですから。

中学生のときに理科の「質量保存の法則」で習ったように、地球の質量というのは最初から一切変化していないのです。

ただ、科学と言語のあやよって、その「区切り方」を変えてみただけで、錯覚しているだけ。

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「なんでせっかくここまで辿り着いたのに、また原始的な方向へと退化してしまっているんだ…」と昔のひとはきっと嘆いているはずです。

だからこそ、我々が幸福になるために本来なすべきことは、目の前を変化させて物質で埋めようとするのではなく、純粋な経験や認識のほうを耕し、余白を増やしていくこと。

先人たちが生み出してくれたこれらの叡智をこれ以上退化させないためにも。

決して万人に伝わる話ではないと思いつつも、伝わる人には少しでも伝わったら嬉しいです。

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