「なぜサロンオーナーを名乗らないのですか?」

このWasei Salonを始めてから、何度も周囲の人々から聞かれてきた質問です。

僕は「発起人」などサロンオーナー以外の言い方を用いて、その都度ごまかしながら対応してきたわけですが、その理由は「トップに何かを置いてはいけない」と思ってきたからです。

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現代における一般的なオンラインサロンは、活躍しているインフルエンサーの方がいて、その人間がサロンオーナーとなり、トップに君臨して運営している場合が多いかと思います。

新規メンバーは、参加したらやるべきことが予め決まっていて、その実は「参加型テレビ」のようなもの。

今月の「100分de名著」は、レイ・ブラッドベリ著『華氏451度』なのですが、ここに出てくる「参加型のテレビ」はまさに現代のオンラインサロンのことじゃないか!となんだか背筋がヒヤッとしました。

「参加型テレビ」が、いまの世間においてものすごく需要があることは明確に理解しつつも、自分がオンラインサロンを運営する中でつくってみたい空間は、決してそうではない。

なるべくトップは「空」にして、主客が何度も入れ替わるような空間を目指したいのです。

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そんなことを考えていたとき、司馬遼太郎の『この国かたち』を読んでいたとき、以下のような一節が出てきて、まさにこれだと膝を打ちました。

少し引用してみます。

ー引用開始ー

どういうことなのか、日本人は、老荘を学んだわけでもないのに老荘的なところがあって、虚(無あるいは空といってもいい)を上に頂きたがる。

また虚の本質と効用を知っているようでもある。虚からすべてがうまれるとも思っている。大山巌の例でいうと、マスター・プランが作動しはじめると、大山はみずからを虚にした。実際、そこからすべてがうまれた。

ー引用終了ー

きっと僕は無意識のうちに、この司馬さんの言う「虚」を置きたがっていたのだと思います。

そして、この老荘思想の「虚」の概念を空間として落とし込んだものが、日本の茶室(すきや)。

今度は、岡倉天心の『茶の本』の中からすこしだけ引用してみたいと思います。

ー引用開始ー

茶室( 数寄屋)は単なる小家で、それ以外のものをてらうものではない、いわゆる 茅屋 に過ぎない。数寄屋の原義は「好き家」である。後になっていろいろな宗匠が茶室に対するそれぞれの考えに従っていろいろな漢字を置き換えた、そして数寄屋という語は「 空き家」または「数奇家」の意味にもなる。

それは詩趣を宿すための仮りの住み家であるからには「好き家」である。さしあたって、ある美的必要を満たすためにおく物のほかは、いっさいの装飾を欠くからには「 空き家」である。それは「不完全崇拝」にささげられ、故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにこれを完成させるからには「数奇家」である。

(中略)

「空き家」という言葉は道教の万物包涵 の説を伝えるほかに、装飾精神の変化を絶えず必要とする考えを含んでいる。茶室はただ暫時美的感情を満足さすためにおかれる物を除いては、全く空虚である。

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僕らが目指すべきは、きっと日常におけるこの茶室のような空間なのではないかと思うのです。

その都度、主客が入れかわり「一期一会」を楽しもうとすることで、そこに何かが動き出す。

不完全性のなかに、自らが主体的に眺める(関わる)ことで、はじめて完成する何か。

そのためにあえて何も置かない、虚(空)に徹する。

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オンラインサロンの中に、老荘思想の「虚」の概念と「茶室」の考え方を用いようとするなんて、気が狂っているのかと思われそうですが、

逆に言うと僕は、日本人の共同体の中においては、このあり方以外に、本当の意味で全員が納得する方法(空間)はないのではないかと思っています。

今日は完全に個人の備忘録のような内容になってしまいましたが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。

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