最近、久石譲さんと養老孟司さんの対談本『脳は耳で感動する』という本を読み終えました。

この本は、もともと2009年に出版された『耳で考える』というお二人の対談本に、「もののあわれとAI」という対談テーマで新たに一章が加えられて、最近発売された新刊なります。

この本が、すごくおもしろかったです。

久石譲さんといえば、『感動をつくれますか?』という本を出されていて、その本もぜひ一度読んでみて欲しい名著なのですが、あの本に書かれてあった久石譲さんの仕事哲学や音楽的な文脈のおもしろさと、養老孟司さんの博識が交差する、とても豪華な対談で、非常に刺激的な一冊でした。

特に、この本を読んでいて、僕が強く膝を打った話がありまして、それを今日は前半でご紹介しつつ、自分がその内容を読んで考えたことについて後半で書いてみたいなと思います。

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じゃあ、その話とは何かと言えば、久石さんが「手触り」をとても重視しているというお話です。

久石さんは、買い物に行っても、やたら何でも触ってしまう癖があると本書の中で語られていました。

「服だったら必ず裏返して肌にあたる感触を確かめる。食べ物でも、とにかく触ってみる。」そうやって、触って初めてそれを自分が受け容れられるか認識するという感じらしいです。

そして当然、久石譲さんと言えば、ピアノを弾いているイメージが強いと思うのですが、ピアノも完全に指先のタッチの問題だから、自分にとってよいピアノはまず鍵盤のタッチのよさが目安になるのだと。

それぐらい、久石さんににとって「触る」ということは非常に大切な感覚のようです。

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で、そのうえで質感について、久石さんが語られていた部分が、非常におもしろかったです。

早速本書から少し引用してみたいと思います。

久石    質感ってすごく大事だと思うんです。よく「肌が合う」と言いますよね。そのフィット感覚はものに対しても人に対してもあって、たとえばそれがブランド品の高級な服だったとしても、馴染めないものは馴染めない。あるいは、大変優秀な人だといって紹介されても、どうも波長の合わない人もいる。もちろん仕事で付き合う相手とは、呼吸を合わせる努力をする。ただ、息は合わせられても、肌合いというのは合わせられないでしょう。その人その人が持っているものだから。結局、感触というのは、そういう自分と対象との距離感をつかみとるためのメジャーみたいなものだという気がするんですよ。


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とてもおもしろい話だなと思いますし、非常に共感する内容です。

養老さんは、この話に対して、各所で養老さんが語られている「個性は意識ではなく、身体のほうにあるんだ」という話を繰り広げていて、「個性を出したい」とか「私らしさ」がどうとか言ってもダメなんだという鉄板ネタを語ってくれていました。

そして、僕も何度かこの場でご紹介してきましたが「親子であっても皮膚の移植すらできない、それぐらい身体のほうが実は真の意味での個性的なんだ」と。

つまり、自らの「肌に合うかどうか」がひとつの自分にとっての絶対的な「メジャー」つまり自らの絶対的な「ものさし」でもあるということですよね。

そして、音楽家のようなアーティストはこのような感覚を、できる限り大切にしたほうが良いことは間違いありません。

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で、これを読みながら僕が考えたのは、逆に言えば肌が合わないのに、理屈を重視するのが男性性(※生物学的な雌雄の話ではない)を中心とした社会でもあるんだろうなあと思いました。

それは言い換えると、「スペック主義」みたいな話でもある。

たまたま洋服の例だったので、洋服のまま具体例を出してみると、肌に合うかどうかよりも「GORE-TEXを採用しているから」とか「ヒートテックの機能性」とかで選びがち。あとはヴィンテージなんかもそうですよね。

明らかに肌が反発していたとしても、つまり着心地が悪かったとしても、ヴィンテージだからという理由で、その情報自体に興奮をしてしまい、大枚はたいて購入し、意気揚々と着られてしまうのが男性性の特徴です。

これは決して、男性全員がそうだと言いたいわけでなく、スペック主義という特殊性が「からだ」を忘れさせて、そうさせてしまうということです。逆に言えば、女性だって宝飾品や高級品などにおいて、同じような「情報や記号に惚れる」という現象はある。

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あとは、洋服の例以外だと、明らかに人間が住むような場所ではないとも思えるのに、タワマンの最上階のような場所に住むこともできてしまう。

これもスペック主義の最たるものだと僕は思います。

「肌に合うか否か」よりも、スペックの優位性に惚れ込んでしまう。

ここまで聞くとなんて男性性はバカなんだ、と思うかも知れないけれど、でも、肌に合うかどうかよりも、理屈や情報があることで、たとえ肌に合わなくても、選び取れるという感覚があるわけでもあるはずです。

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そして、これは決して良し悪しの話ではなくて、そのような「肌に合う」の対局にある、万人に匹敵する客観的なメジャーやものさしが、哲学者・苫野一徳さんがよくVoicyで語られている「自由の相互承認」みたいな話にもつながっていくんだと思うんですよね。

ここが今日一番強調したいポイント。

これが理屈を優先して考える、プラスの側面でもあります。

「自由の相互承認」は「肌に合わないものであっても、決して排除はするな。お互いの存在をまずは承認し合おう」というひとつの人工的な規範であり、ルールでもあるわけですから。

逆に質感重視だと、自分の肌に合わなければ簡単に他者を排除してしまう。コミュニティからも、理屈なんか抜きにして「あいつは、肌に合わないから」という理由で排除できてしまう。

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で、くれぐれも誤解しないでいただきたいのは、これはどっちが良い悪いの話ではないということです。

そうじゃなくて、理屈は理屈としての価値があり、「肌に合う」といった感覚の個性を大切にすることも、同様に価値があるということ。

にも関わらず、理屈を理屈だと思わずに、それをドンドン先鋭化させていってしまうと、今度は途端に、変な共同体内だけのルールが生まれてくる。

それは特定の集団内における独特なルールでしかないにも関わらず、それがその共同体の共通の「肌に合うもの」だと思い込んでしまう。内輪ノリに近い感覚です。

そして、その中にふと、年代やカルチャーが異なるひとが入ってきて、その違和感を告発されてしまうと、途端にその集団が崩壊してしまう。

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で、僕が今日のブログの中で言いたいのは、このあたりのバランスや構造みたいなものを、ちゃんと理解しておきたいよね、ってことなんです。

そして、現状において、足りていない感覚のほうをしっかりと取り戻していきたい。

それは個人においても、共同体においてもそうだと思います。

そのときどきの時代や世間というのは、必ずどちらか一方に偏りがちだから。

現代で言えば、リベラルエリート主義は、理屈によって「肌に合う・合わない」を関係なく、絶対的な「ともにいる」という非・動物的な理屈を先鋭化しすぎたわけですよね。

その裏を取られてしまっているのが、トランプ現象やイーロン・マスク現象。人間はもっと人間であり動物的だろう、という開き直り。

社会のルールを「理屈」で固めすぎると、人間の本能的な感覚がないがしろにされてしまっていると感じて、その反動として「もっと人間らしいもの」を求める流れが生まれてくる。これはまさに現代の政治や文化の動向にも当てはまる話だと思います。

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で、いま、改めて「肌に合うか」どうかを丁寧に精査することって、とても大事なことだなと僕は思っています。

それは先日ご紹介した、小林秀雄の「直観」みたいな話もそう。

「客観」が理屈だとすれば、「主観」は意識が生み出す喜びや情緒のようなもの。

でも直観はもっともっと生理的感覚にも近い。理由がなく、好き嫌いみたいなものがハッキリしているがゆえにのめり込んでしまう、とか毛嫌いしてしまう、みたいなことですから。

そして、肌に合わないなと思ったら、適切な距離をとっておくことがとても大事だなと思います。その感覚を、お互いに大事にしよう、尊重しようとして相手の中にある、その肌感覚に対して敬意を持ち合うこと。

理屈や感情、イデオロギーで丸め込もうとしない。そうすると余計に反発し合ってしまうわけですから。

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このあたりの構造を理解し合うことが、巡り巡ってコミュニティや社会においても、ともにいられる形につながるんだと思います。

言い換えると、「自由の相互承認」のような形で肌に合わないものを排除しない、「社会のルール」という理屈を厳守するためにこそ、つまり公共の福祉を成り立たせるためにこそ、「肌に合う」コミュニティに参加をし、お互いの直観を語り合える豊かさみたいなものを同時に担保しておくこと。

そんなことが、いま本当に大切になってきているんだろうなあと感じています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。