近年、人と人とがわかり合えない場面がドンドン増えてきました。

そうなると、僕らは「わかり合えない」ことを前提に、他者とのコミュニケーションを始めるしかない。

それは以前、下記の記事にも書いたとおりです。

参照:協調性を捨て去り、社交性を身につけて、それでも僕らは生きていく。

そんな世の中が一般化していく中で、最近よく思うことは、僕らはあまりにも「変化」を求めすぎなんじゃないかということです。

今日はそんなお話を少しだけ。

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僕らのなかには、他者とコミュニケーションする際に以下のような無言の圧力が存在しています。

・相手に共感を示さなければならない。(シンパシー)
・共感が示せなくても、せめて相手や他人の置かれている状況に理解を示さなければならない。(エンパシー)
・何か具体的な解決策を提示しなければならない。(ソリューション)

どれにしても自分が明確なアクションを起こして、物語を次のステージに進めなければいけないという無言の圧力です。

仏教における縁起、そこから生まれる因果の作用を及ぼす相手の「因」に、この私自身がならなければならない。それが相手にとっても自分にとっても、良いことであると信じて疑わないという態度です。

でも、それこそが起承転結のある「ストーリー」に慣れすぎてしまった呪いでもあると僕は思うのです。

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この点、昨日『流浪の月』という映画を観てきました。

この作品に対しては、いろいろな解釈があり得ると思いますが、個人的には次元の異なる作品を観てしまったなあという感覚です。

特に僕が強く印象に残っているのは、松坂桃李演じる文が、白鳥玉季演じる10歳の更紗の横に座って、一緒にひとつの容器に入っているアイスをただ無言で食べるシーン。

彼女の抱える問題について、何も話さないし、何か解決策を提示しようとするわけでもない。ただ隣りに座って一緒にアイスを食べながら、無言で共感を示す場面になっていました。

ほんの一瞬ではありましたが、本当に素晴らしいシーンだったと感じます。

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本当は、どこまでも終わりのない「ナラティブ」でいいんだと思います。何も進展していかないかもしれないし、何も変化もしていかないかもしれない。

どうしても人は、社会的な時間の制約や、生物学的な時間の制約を錦の御旗のように掲げて、刻一刻と迫ってくる「死」という不安や恐れを、なんとかごまかそうとしながら生きています。

そのような「常識」や「科学」という共同幻想に追い立てられて、年齢と共にライフステージを変化させていかなくちゃいけないと思いこんでしまっている。

でも、たとえストーリーとして物語が進展していかなくとも、その時間を共にしている人間同士の間には、一緒に眺めた確かな「景色」が必ず存在するはずで。

その記憶を共有する態度に、一番救われるということは間違いなくあると思うのです。それが、ただ隣にいることで救われるという現象なんじゃないのかなと。

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にもかかわらず、まったく関係のない赤の他人が、さまざまな「常識」や「正義」を盾にして、勝手に目の前の関係性に対してレッテルを貼り、あの手この手を使って必死に妨害しようとしてくる。

映画『流浪の月』は、まさにそのような世間の残酷さをまざまざと描いた作品でした。

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たとえどのような関係性であったとしても、本人同士が望むなら、ただ隣にいることが認められる世の中になって欲しいと強く願うし、無理に相手の「因」になろうとしなくてもいい。

ともに生きる、そんな共感の在り方を示せる人間でありたいなあと強く思います。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。

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