先日、濱口秀司さんと糸井重里さんの対談コンテンツが音声化された「聞く、ほぼ日。」を聴きました。
この対談の中で、非常に大切なことが語られていました。耳から入ってきた瞬間に、ものすごく強い衝撃を受けたのです。
それがタイトルにもあるとおり、「人は、過去を美化し、未来を理想化し、現在を深い谷だと捉えて生き辛いと感じている」というお話です。
早速、本編から引用してみましょう。(テキストでも公開されています)
濱口 人間っていつのまにか過去を美化するんです。
なぜなら、人生は辛いことがいっぱいあるのに、
過去を振り返るときに
辛いことを引きずったままだと生きていけないから。
無意識のうちに美化して、辛さを軽くして、
自分をコントロールしてしまう。
僕も気をつけないと、かなり美化してしまいます。
そして、未来にも期待します。
未来を暗黒に描く人ってすくなくて、
空を自由に飛べるとか、
世界中の人が暖かくつながるとか、
精神的に健全な人は
未来を美化してポジティブに描くんです。
糸井 過去も未来も美化しているんですね。
濱口 はい。そうなると、
現在(いま)を谷間に感じるんですよ。
美しい過去と未来に挟まれた、谷。
「現在ちょっとおもろうないやん」と、
日々のフラストレーションを余計に感じてしまう。
でもね、実際は、
過去も未来も現在もフラットです。
フラットなんだから
過去や未来に期待するのではなくて、
どう考えても一番コントロールしやすい
目の前の「現在」を工夫して、
思いきりたのしむほうがいいと、
僕はそう思っています。
引用元:14 濱口秀司さんのアイデアのカケラたち。 - ほぼ日刊イトイ新聞
このお話は、本当にそのとおりだと思います。
自分自身の体験を通してもそうですし、周囲のひとびとの何気ない言動を見ていても、非常に強くそう思います。
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どうしても僕らは過去を「ファクト」のように認識してしまう。
自分が実際に体験したことだと信じているのだから、ある意味当然です。でも、ほんの数十秒前の過去から既に「美化」への書き換えが始まっているのです。
この美化する作業から、私たちは逃れることができない。過ぎ去った瞬間から「ファクト」ではなくなっていく。ここがかなり重要なポイントだと思います。
そういえば以前、まったく別の文脈で心理学者・岸田秀さんの「過去」と「未来」の話も、Twitterでご紹介したことがあります。それがこちら。
僕らは過去を美化するために、嫌だった部分や辛かった部分を大幅に削り出し、その削り出した土砂のような「影」をそのまま未来に投影し、希望に変えてしまっている。
それが、僕らの思い描く「未来」の嘘偽りのない正体なのだと思います。
逆に言えば、そうやって人工的に自分(たち)に都合よく未来という存在にいくらでも投影できるからこそ、過去もいくらでも美化できてしまうということでもあるのでしょう。
過去と未来は同時に書き換えられるから価値があるし、そこに共犯関係が成立する。
でもそれは、文字通りすべて「幻想」にすぎないのです。
そして「それは幻想なんだよ」と目の前に突きつけられるのが「死の宣告」なのだと思います。
自らの余命を知らされるだけではなく、自分はいつか必ず死ぬのだと身近な他者の死や、自分自身の九死に一生を得るような臨死体験を通じて、それを自覚するのでしょう。
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この点、確かに人類は、そんな幻想を自らの中で人工的に捏造し、その過程を繰り返していくことで社会を発展させてきたことは間違いないと思います。
だから、この認識自体を完全否定するつもりはありません。
だけれども、このようなバイアスが私達の中に存在し、本当は全て幻想であり人工的であるという自覚は強く持っておいたほうが良いと思うのです。
それは、映画館や劇場で「今、私はフィクションを観ているのだ」と常に自覚しておくような話に似ている。
人間は、フィクションに強く突き動かされて現実を変容させていく力を持つけれど、そのフィクション自体は事実だと思って行動はしませんよね。どれだけ没入感が強かったとしても、それは「創作物」であるという前提のもと行動するはずです。
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それと同様に、自分の過去と未来も「フィクション」なんです。
そうすることで、本当に「いまここ」しかないということが初めて理解できるようになる。
冒頭に引用した文章にもあるように、時間軸のなかに高低差は存在せず、すべてはフラットであると腹の底から理解できて、今を深い谷のように捉えて悲観的(ニヒリズム)な感覚に陥らなくて済むようになる。
私にとっての真実(ファクト)は、現在、いまこの瞬間だけ。
いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても、この感覚が少しでも伝わったら幸いです。