歴史や哲学を勉強しながら、少しずつ現代の世の中を俯瞰的に眺めることができるようになってくると、「なぜこんな仕組みになっているのか」と、その理不尽さや不条理な感覚に押しつぶされそうになることがあります。

このときの自己の感情との向き合い方がとってもむずかしい。

こんなことなら、何も気づかないまま世間の「普通」に染まり、消費を心から楽しみながら享楽的に生きて死んでいったほうがラクだったのではないかという完全に誤った解釈も不意に襲ってきてしまいます。

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どうしたものかとフワフワと考えていた時に、『思考のコンパス ノーマルなき世界を生きるヒント』という本の中に出てくる養老孟司さんと山口周さんの対談の中に、ものすごくハッとした問いと答えを発見しました。

上述したような悩みを抱えているひとにとって、ものすごく参考になるであろう受け答えだと思いますので、以下で少し引用してみたいと思います。


山口    過去の哲学者には、精神を病んだり、自ら命を断った人も多くいます。夏目漱石は『行人』で、「自害するか発狂するか宗教に入るか、僕の前途にはこの3つしかない」というようなことを登場人物に言わせています。これは漱石自身の心境だったのではないかと思います。その後の『こころ』では、先生は自害してしまい、『門』では主人公が鎌倉・円覚寺に参禅する、つまり宗教に入ります。

先生の目にはいろいろなことが見えていて、こっちの方向に行ったら良くないという確信がある。でも説得は難しいし証明もできない。(中略)なぜ先生は諦めず発信を続けてこられたのでしょうか。

養老     漱石の例を出されましたけれど、あれは、ある意味で世間に埋没しちゃったわけです。私は虫の世界がありますから。全然違うものが半分以上。人間の社会というのは全部じゃありません。たかだか半分。


人間の脳がつくり出した世界だけにとらわれているから、世間に埋没してしまい、自害したり、発狂したり、宗教に入信したりしようとしてしまう。

でも、養老孟司さんのように「虫の世界」にも同時に入り込み、人間の脳がつくり出したものではないまったく違う原理で動いている世界に半分身を置いておくことで、それを回避することができる(のかもしれない)。

僕自身はまだ明確に自分にとって「◯◯の世界」があるわけではないですが、煮詰まると明確に何かから距離を取るように散歩してみたり、住む場所ごと移動してしまうのは、まさにこのような欲求からなのかなと。

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この点、多くのひとは、本業とは全く関係のない何か違う世界のもの触れ合いたい、研究したいと感じる欲求を何かしら持っているかと思います。

都会に暮らしていても、植物と触れ合うひとはかなり増えてきたように思いますし、猫や犬のようなペットなどの生き物や、微生物や粘菌、宇宙などなど人間社会とはまったく違う原理で動いているものに惹かれるというひとが年々増えているように感じます。

しかし、彼ら(彼女ら)はそれを求める理由を自分でもハッキリと言語化できないため、どこかそのことをネガティブに捉えているご様子で、「趣味で◯◯を少しだけ…」と言葉を濁しますように語ります。

本業に専念できていないという後ろめたい気持ちがあるのか、あまり真正面から語ろうとはしてくれません。

でも、ここで声を大にして主張したいことは、むしろその趣味のように感じている世界に片足を突っ込んでいることこそが生きるうえで大事だと思うのです。

それは時に仕事や本業よりも大事な瞬間があるのでしょう。

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「世間」という人間の脳がつくり出した社会以外に、複数の世界を覗いている感覚を持てること、それが冒頭に書いたような感情に押し潰されないための秘訣なのだと思います。

後ろめたさなどを感じることなく、ぜひこれからも各人にとってのそんな「別の世界」を大事にしていって欲しいと願います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。