佐々木俊尚さんが、ご自身のVoicyの中で「アジール」のお話を語られていました。
ご自身が10代のころに味わった体験をもとに語られている内容で、佐々木さんだからこそ語ることができる素晴らしい内容になっていたなあと思います。
以前から僕は、佐々木さんが時折語ってくれるこの「アジール」のお話が個人的にかなり好きなんですよね。
ぜひ多くのひとに聞いてみて欲しいなと思うので、そのリンクも貼っておきます。
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で、今このアジールの概念というのは、再びとても大事な局面に入って来ているなあと感じています。
なぜなら、これからの日本において格差が広がっていくことは、もうほぼ確実だから。
その中で、意図せず何かしらのボタンの掛け違いのような形で一般的な生活が困難になってしまうのは、本当に誰にでも起こり得る話であって、これまで以上にその対象者が増えることも間違いない。
でも近年の社会は、そんな世の中の流れとは裏腹に、どんどんとクリーンな社会になっています。世間からアンダーグラウンドな空間というのが、ほとんど完全に消えさってしまいました。
渋谷なんかも本当にピッカピカです。アングラの、アの字もない。
つまり世の中がクリーンな職場や人間社会、そして地域行政などが担っているような社会福祉のセーフティーネット、ほぼその二択となってしまっているような状態です。
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で、佐々木さんはVoicyの配信の中で、昔は借金取りに追われて実名で暮らせないような人たちは、夜逃げをして工場労働、水商売、旅館業などが、そのようなひとびとの受け皿だったという、お話を語られていました。
「じゃあ、現代はどうなっているんだろう?」って思ったんですよね。
もちろん、未だにそういう場所は健在なんだろうけれども、たぶんそのような受け皿ももう徐々に消え去り始めている。
僕は、なぜだかドヤ街や治安の悪いエリアを散歩するのが趣味みたいなところがあって、地方に行く度に、あまり近づかないほうが良いよと言われるようなエリアにも積極的に足を運んで、自分の目で見に行ってしまいます。
そのようなエリアに足を運ぶ度に、きっともはや昔のようには機能していないんだろうなあといつも思わされてしまいます。
具体的にはドンドン高齢化が進み、昔からその場に出入りしていたひとたちにとっては一定の居場所のようになっているんだろうけれども、若い人たちにとって、なにか新しく足を踏み入れる場所となっているかといえば決してそうではない。
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じゃあ若い人たちは一体どうしているのかといえば、今はそんなアジールがきっとインターネットによって分散化されているということなんだと思います。
たとえば、NFTコミュニティなんかはそう。
実は誰も気が付かないところで、そのような現代のアジールとしての機能を、きっと立派に果たしているんだろうなあと思うのです。
身元確認どころか、性別や年齢さえも確認されず、かつ何かしらの労働や貢献をすればお小遣い程度の収入はもらえる。そこでネットスキルを身につければ、本当になんとか食いつなぐことも可能となるかと思います。
で、もちろんこれは決して悪いことではないと思っていて、僕はそのような曖昧な場所や、「あわい的な場所」が世の中に意図せず増えることは本当に大事なことだと思うんですよね。
行政がつくるような「表の社会からは完全に隔てられた空間」ではなく、普通の世の中の地続きとして社会のなかでアジール的な役割を果たしているところが、しれっと増えていくことが本当にとても大事だなと。しかも、複数分散的に、です。
それが真の意味での社会的包摂にも、つながっていくと思うのです。
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さらに、ここで僕がいちばん大事だと思うのは、アジールが「アジール」だと表示されていないことであって、本人たちも自分たちが「社会的弱者である」ということに”気がついていない”状態が一番理想的だなあと思います。
ここが今日一番強調したいポイントかもしれません。
もちろん、わかりやすく「ここはアジールです」と掲げられている場所も大切です。
自覚症状があるひとたちが、駆け込み寺のように頼れる場所があることはいつの世の中も必要であって、それは言わずもがな。
そこに、最も多くの財政支援があるといいなと強く思う。
でも、受け入れる側だけでなく、受け入れられる側も、自分が社会的弱者であると気づいていないタイミングで、そのようなセーフティーネットに関われていることが大事なんじゃないか。
なぜなら「ここは支援の場所です!」となってしまうと、お互いの立場が完全に固定化してしまうからです。
そのひとの尊厳とというか、イキイキとするための「余白」みたいなものを完全に奪ってしまうような気がしています。
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そういえば以前、社会学者の宮台真司さんが、昔の貧乏学生は「衣類や所持品が安っぽい」「自炊以外選択肢がない」「木造アパートに住んでる」「ラジカセしか持ってない」などなど、社会の中ですぐに見てわかりやすい存在だったと語られていました。
でも現代は、おじさん達がZ世代の貧困に気づかないのは、安価なサービスを上手く使っていて、彼らが貧困に見えないからだと。
そのうえで宮台さんの主張は「本来人間がより良く生きたければ、ただ素直に困っている目の前のヤツを助ければいい。今は誰が困っているヤツかがわからない。結果として、過剰包摂社会は、そのような連帯を生めなくなってしまった!」と批判的に語られていたんですよね。
このお話を聞いたとき、僕は強く膝を打ち、本当にそれは一理あるなあと思いました。
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現代に生きていると、どうしてもみんな”それなりの生活”をしているもんだと思いがち。
でも、実はそうじゃない可能性もあるんだと。これはとっても大切な視点だと思います。
つまり、一生懸命ボランティアしたいと思う人たち、救いたいと願っているひとたちが彼らのことは見つけられないかもしれないし、本人たちもまさか自分は社会的弱者であると気づいていない場合も多い。でもなぜか、毎月の生活が苦しいというような…。
もしそれが、インターネット上のコミュニティのような場において本人でさえも気づいていない状態の中で包摂されていたら?
それが一番理想的な形だなあと僕は思うのです。
このような場を世の中に、特に世界中どこからでもアクセスすることができるインターネット上に、たくさんつくっていくことのほうが、僕はいま急務だし重要だなと感じます。
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この点、以前、牧師の奥田知志さんがおっしゃっていたことで非常に印象に残っているお話があります。
それは「助けているようで、助けられているのが良い支援だ」というお話です。
以前、ブログにも書いたことがあります。
僕らはどうしても、コミュニケーションを取りやすくするために「助ける側・助けられる側」と立場を固定化して、お世話をする人と、お世話をされるひとという明確な役割に完全に切り分けちゃう。
でもそれが、支援される側にとっても、する側にとっても実は居心地を悪くしてしまうのだと。
日本人は特に「初めまして」の場所のコンテキストを、その後の人間関係においてもいつまでも継続してしまいがちです。
たとえば、どれだけ後輩が社会で成功して稼いでみても、先輩が奢るみたいな状態とかは、わかりやすいですよね。儒教文化の良い側面でもあるとはおもいつつ、もっともっと頻繁にその立場が入れ替わってもいいと思います。
そのためにはお互いの関係性が、フラットであること。
お互いがお互いを自然に助け合っているという互助的な感覚を持てることのほうが、世間はよっぽど健全に機能し続けるように思います。
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で、繰り返しになりますが、それを今一番体現している空間って、実はインターネット上のコミュニティのような気がしているという話です。
そのような様子が「インターネットは怪しいところ」というレッテルを貼られがちな理由でして、実際そのようなひとたちによって怪しいビジネスが行われていることもしばしばなんですが、それと同時に、その懐の深さが現代においては、その社会的包摂の役割を担っているんだと僕は思います。
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今後はもっともっと、誰もそこをアジールだと思っていない「アジール」的な役割を果たしている場所が、増えていって欲しいなあと思います。
お互いの援助する・援助されるという関係性も曖昧なまま、本人にも劣等感も抱かせないまま、対等でいられる空間が、本当にとっても大切だなあと。
そういう場に複数またいで所属していれば、一人の人間がなんとか食いつないで行くことは可能となるはずだから。
インターネットなら、そのような組織に複数同時に所属することも簡単です。
1人の人間をひとつのコミュニティ内で助けることは大変であっても、0.5人ずつ程度だったら、そこまで大変なことじゃない。
僕らが、奥田さんたちのような素晴らしい活動はできなくても、そこにひとりひとりの何かしらの席が空いているような状態が、社会の中にもっともっと増えていくといいなあと思う次第です。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/01/31 20:13