なぜ旧約聖書の中には、ヨブ記のような物語が書かれてあるのか。
そんなことを考えたことがある方は、このブログの読者の中には、あまり多くはないかと思います。
ヨブ記の話自体は知っていても、ヨブのような信心深い人間は、とても宗教的な存在に見えるから「そりゃあ当然、聖書の中に書かれてあってもおかしくないだろう」と普通ならスルーしてしまいがち。
なんなら、一番聖書みたいな書物において必要な物語なんじゃないかとさえ感じると思うはずなんです。
僕も、ずっとそう思って生きてきました。
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でも、これって、よくよく考えてみると、とても不思議な物語なんですよね。
だって、ヨブ記はものすごく信心深いヨブの話にも関わらず、それでも一向に報われずに、むしろ信心深くなればなるほど、不幸なことが身の回りに起き続けてしまうわけですから。
最終的には、家族と財産のすべてを失い、自分自身も重い皮膚病に罹ってしまったりしてしまう。
そして、まわりのひとたちにも、それはおまえに信仰が足りないからだと批判されてしまう。本当は、ものすごく神を信仰しているのに、です。
となると、これは一神教を広めるにあたっては、本来なら不都合な物語であるはずなんですよね。
信じれば信じるほど、逆に客観的に見れば不幸になっていくわけだから。
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じゃあなぜ、わざわざ旧約聖書の中には、このような物語が描かれているのか。
その理由を読んだとき、僕はものすごく目からウロコが落ちるような気持ちになりました。
以前もご紹介したことのある社会学者・大澤真幸さんの『<問い>の読書術』という本の中で、大澤さんは山本七平の『空気の研究』について言及しながら、以下のような語り口でヨブ記が聖書に書かれている理由について説明します。
以下、さっそく本書から引用してみたいと思います。
どうして、宗教的なテクストの中に、こんな物語が入っているのか。これほど宗教にとって不利な話はないように見える。非常に信仰に篤い人物が、まったく報われることがない、という筋なのだから。神を信じても不幸が避けられないなら、どうして信仰などもつだろうか。
だが、この物語こそ、偶像崇拝に対する最も徹底した批判なのだ。ほとんどの人は、「正しい者が必ず報われる社会」は、最も善い、理想的な社会だと考えている。選挙運動で、「正直に努力した人が報われる国にします」ということを、当たり前のように訴える候補者が多いはずだ。有権者も、「そうだ、そうだ」と思って、そういう候補者を応援したくなる。
しかし、よく考えてみてほしい。「正しい人が必ず報われ、幸福になる社会」が善い社会かどうか、を。それは、とんでもない社会である。もしあなたがそういう社会に住んでいたとして、しかも不幸だったとしよう。それは、即、あなたが悪い人であることをも含意していることになる。
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これは、言われてみると、本当にそのとおりですよね。
正しければ必ず報われる社会は、不幸な人を見つけた瞬間に、罪人として非難することが可能となる社会になってしまう。
「正しい人が報われる」というスローガン、倫理的な正しさと幸福・快楽とを直結させる命題というのは、一見だれも反対できない魅力的な目標に見えてしまうのだけれども、「ヨブ記」は、それすらも相対化してみせているんだと、大澤さんは本書に書かれていました。
これは本当にハッとさせられるお話です。
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そして、一神教徒というのは、唯一の神だけを絶対化するので、それゆえに、他のすべてが相対化されているんだと言います。
それは言い換えると、神を除くすべてのことは「絶対的に善である」とか「絶対的に正しい」ということはなく、善と悪との二極性をもつのだと。
一方で、日本のように一神教ではなく「空気」に支配されている国というのは、何でもかんでも「空気」に流されて、その「空気」のほうを絶対化されてしまう傾向にある。
たとえば現代社会においても、「インフルエンサー崇拝」だったりとか、努力しなかったやつが悪いんだという「自己責任論」の問題が、頻繁に話題になるのは、とてもわかりやすい事例です。
そうすると、世の中は、そのような「空気」がどんどん醸成されていき、そのための仕組みや構造なんかも構築されていく。そしてそれが、次第に絶対視されるようになっていきます。
その上で失敗したら「自分は完全に間違っていた、劣っていた」ということになってしまいますし、勝ち組、負け組の議論なんかも「ごもっともです」とひれ伏さなければいけなくなってしまうわけですよね。
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で、ここで話が少しそれるのですが、たまたま今日Twitterで流れてきた羽生善治さんの名言が、なんだか今日の話と関連するなあと思いました。
どんな名言だったのかと言えば、以下のような話です。
「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。 報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。」
これって本当に大事な心がけだなあと思います。
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たとえば、僕らはどうしても「相手から愛されるなら、私も相手を愛し返そう」という打算的なことを考えてしまったりするわけじゃないですか。
そして、その蓋然性が高く、十中八九その愛が得られるという算段がついてから動き出そうとする。
でも本当に大事なことはそうじゃなくて、ヨブ記のヨブみたいに、ただただ信じて実践をすることなんだろうなあと思います。
そもそもそのような次元の話「あれが手に入るから、これをする」ではなく「ただ、私はこれをする」ということを突き詰めることができるかどうか。
それができる、ヨブのような人間にこそ「才能」があるということを、きっと羽生さんも言いたいんだと思うんですよね。
そして、その一歩を踏み出せるかどうかが非常に重要なポイントになる。それが僕は「勇気」だと思うのです。
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他人から愛されたかったら、まずは自分から愛さなくちゃいけない。それは紛れもない事実なんです。
そこでもし「あなたが愛してくれるなら、私も愛する」と言ってしまったら、それは単純に等価交換にすぎない。愛でもなんでもない、ただの取引です。
でも、自分から率先して相手を愛したからといって、相手からも同様に愛し返してもらえるわけじゃない(ここが本当に重要なポイントです)
そして普通だったら、愛されないとか、何かしらのポジティブな反応が相手(世界や他者)から返ってこないというだけで、大抵のひとはここで、自らの「活動」全般を諦めちゃうわけです。
なんなら、捨て台詞さえ吐くわけですよね。「こんなにも、私は愛したのにもかかわらず、私にはなんの見返りもなかった!」と。
でも、その論理が通用してしまったら、それこそ等価交換であって、愛をいちばん根源的に否定してしまうことになってしまう。
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やってみても、何が手に入るかなんて誰にもわからないし、その努力の99%は徒労に終わるかもしれない。
にも関わらず、それでもやろうとすることが何かを「信じる」だったり「愛する」だったり、何かを突き詰めるという行為。その一歩を踏み出すことが勇気であり、それを継続すると、いつしかそれが「才能」となる。とはいえ「才能」となったところで社会的に成功するわけでは決してない。
にも関わらず、それが手に入らなかったときに、すぐ詐欺だ!みたいに言ってしまうのは、天につばを吐くようなものなんですよね。
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これは、先日書いた西郷隆盛の話にもつながってくると思います。
西郷も、本当に尊いことは社会的に報われることなんかよりも、もっと別にあると考えていたはずなのです。
誰もが動機やモチベーションにしがちな「人間社会から認められるため」とか「社会的に成功するため」にやるというのはそれは間違っている、と。
そうじゃなくて、やらずにいられないから、やるわけです。
西郷隆盛にとって、その基準は「敬天愛人」としての「天」だったわけですよね。
言い換えると、天に背かない生き方をしているかどうか、それこそが西郷にとっては重要であって、人間世界の中で世俗的に報われるか否かという基準にはまったくもって興味関心がなかったのだと思います。
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もちろん、こういう発想というのは、時として、とても危うい思想にも繋がりがちでそれを歴史が証明しているわけだけれども、でも人間が生きるうえでの根本的な考え方としては、本当にここがベースになんだと思います。
さもないと、常に世間の「空気」に流されて、他人が都合よく生み出した「空気」を絶対視させられるようになってしまいますから。
「ああすれば、こうなる」じゃないですが「あれをすれば、このように成功する」という言葉に騙される。
というか、このような言葉に人は簡単に騙されるから、そういう発言をするひとが後を絶たないわけです。逆に言えば、そのような話が人からの注目が集めやすくて、人が群がってくれるからこそ、それこそが自分の求める人生の目的であり最終目的地だと僕らは思わされているだけであって。
でも本当はそうじゃない。これで報われなかったら、報われなかったでもいいじゃないかと思えることを、最後まで徹底して貫けるかどうか。
その基準が天だったり、神だったり、対象はなんでもいいと思うけれど、決して世間の基準ではなく、自分の中で唯一絶対化できるものとの間において、その約束を取り交わすことができるかどうかが僕らの「生きる」や「はたらく」には問われている。
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少なくとも僕はそんなことを考えながら、日々淡々とこのブログを書いて、Wasei Salonを運営しています。
もちろん、最大限の他者に対する敬意と配慮と親切心、そして礼儀を持ち合わせることも、常に忘れずにありたいなと願いながら。
一般的な価値観とは大きく異なる複雑な話をしてしまった自覚は強くあるので、どこまでしっかりと伝わったかはかなり不安な部分もあるのですが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。