テレビで戦後復興の映像を見るたびに、ずっと不思議だと思っていたのは、敗戦のあとのあの独特な陽気さ、です。
戦後歌謡曲の代名詞である「りんごの唄」が流れる背景で、なぜか元気そうに見える当時の人々は、なぜあんなにも陽気だったのか。
こんなことを大きな声で言ったら怒られるのかもしれないけれど、それはきっと人々が敗戦から生まれた「大きな傷」を共有していたからなんじゃないのかなと思うのです。
そうやって、誰もが「戦争」という同じ要因によってうまれた、文字通り心身ともに大きな「傷」を背負っていた。
最愛の人をなくしているひとも、本当に当たり前のように身近に存在するわけですよね。というか、自分自身がその当事者でもあったりしたわけです、きっと。
その周囲の人々の傷に自然と理解を寄せて、もちろん相手も理解を寄せてくれて、自然とお互いにケアができてしまう状況というのがきっと、戦後復興の日本には間違いなくあったんだろうなあと。
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つまり、お互いに当事者であれば、その傷で繋がれたということだと思います。
また、相対的にそれぞれの「小さな傷」だって些末なことにも思えてくる。というか、大きな傷のほうで相手からケアをしてもらっているから、小さな傷への無関心や配慮のない言動にも、ある程度はきっと目をつぶれた。
そして、大きな傷をお互いにケアし合って、あとはただ肩組んで共に立ち上がるだけ。
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一方で現代は、傷が完全に個別化しているし、その要因もバラバラです。
また、そうやってそれぞれが気にしているのは、相対的にはかなり小さな傷なんです。
いや、本人からすれば間違いなく大きな傷で「これこそが、私の実存的な問題の最たる要因なんだ!」と思うかもしれないけれど、周囲からしたら「まあ、人間が生きていればそんなこともあるよね、それよりもさ〜」となるものばかりに映ってしまう。
でもそうすると、その傷が、あたかもお前の幻想に過ぎないと言われているような気分になって、他者の関心や同情を引くこともなく、誰からも寄り添われずに結果的に孤立しているように感じられてしまうわけですよね。
これは現代社会の大きな課題の一つと言えると思います。
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そして、この戦後復興時と現代を比較して強く思うことは、普通なら、戦争の大きな傷よりも、平和な社会での小さな傷のほうがいいと思うはずなんです。
「最大多数の最大幸福」のような功利主義的な観点からいっても、当然そのような結論になる。
しかし、こうやって考えてくると、実のところ、平和で多様性が認められる社会のほうが、人々はそれぞれに孤立して、各人が「小さな傷」に苦しみ続けることになるのではないかという、逆説的な結論に至ります。
つまり、人の苦しみのうえで、真の意味で問題となるのは、「傷の大小」というよりも、実はそれに対する「ケアの度合い」の問題だったということが、まさに今日の主題です。
現代社会の難点というのは、傷を小さくしてきた結果として、個々の見えない傷に対する社会全体の「ケアの度合い」が相対的に低下していることが原因なのではないでしょうか。
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繰り返しますが、傷がそれぞれに異なって、その傷の要因もバラバラだと「しらねえよ、そんな小さな傷」となってしまう。
そして、さらに厄介なことは、良くも悪くも僕らは戦争の歴史なんかも知っちゃっているわけで、人類が犯した最大の過ちと、それによって生まれた莫大な「傷跡」も映像を通して何度も目にしているわけなんですよね。
だから、こんな平和ボケしている現代に存在する傷なんて、すべてが些末なことに見えてしまう。
そんなのはたかが知れていると、勝手に比較して決めつけてしまうわけです。
食うに困らず「健康で文化的な最低限度の生活」が送れているのであれば、それ以上は、相対的に「贅沢な悩み」だったり、「個人で解決するべき課題」に見えちゃうのはある意味では当然で仕方ないことなんだろうなあと。
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で、ここで話が変わっちゃうのですが、2018年に公開された映画『ボヘミアン・ラプソディ』。
あの映画があれだけヒットした理由って、意外と冷静に考えると不思議だと思いませんか。
あの実話の元になっている当時の熱狂を知っていれば、その裏側のドキュメンタリーとして「実はこんなにフレディ・マーキュリーは苦しんでいたんだ」と楽しめるかもしれませんが、でもあの映画に熱狂をしていたのは、意外と若い世代に多かったように思います。彼らは当時のQueenを知らない世代だっと思うんですよね。
これって、よくよく考えると本当に不思議だなと。
言い換えると、あんなトップアーティストの孤独のようなものに対して、なぜ僕らのような平々凡々の凡人にも、何度も観に行きたいと思わせてしまう、その魅力とは一体なんだったのか、と。
で、あの映画の中で描かれていた孤独というのは、つまりは「私の傷は他者には理解されていない」ということだったんじゃないか。
そう考えると、現代の一般人にとっても、ものすごく「自分ごと」になるんです。
言い換えると、現代人が感じている見えない孤独や理解されない傷の痛みが、フレディ・マーキュリーの物語に、見事に投影できてしまった。現代社会における「個別化された傷」の普遍性のようなものが、あの映画の中には描かれていたということなんでしょうね。
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逆に言うと、現代を生きる僕らは、当時のトップアーティストが感じていたであろう、圧倒的な孤独や痛みみたいなものを、それぞれの「痛み」として一般人が抱えてしまっている可能性が高いということもある。
公開が2018年ごろというのも絶妙なタイミングで、あの映画は、そんな言葉にならない言葉みたいなものが、みんなの中に漠然と存在し始めた、ちょうどいいタイミングだったんだと思うんですよね。
そして、そのあとの2019年に『ジョーカー』が公開されて、それを決定的にしたということなんだと思います。
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あとこれも余談なんですが、芸能人や富裕層が同じような属性の者同士で集まるのも、このあたりに理由があるはずで。
あれっていうのは、決してお高く止まっているというわけではないと思うんですよね。
そうではなく、お互いが置かれている状況が近しいがゆえに、それによって生まれてくる傷もまた似通ってくるから、自然と集ってしまうということでもある。
逆に言うと、その傷は一般庶民の僕らには、全く理解できないものであり、ケアも難しい。もちろんそれは、逆も然りだと思います。
だから、お互いの傷が見える者同士で集まって、お互いにケアすることになる。
何度も過去に書いてきたように、傷というのは、あくまで個々の物語の中で生まれてくる「相対的なもの」でもあるわけですから。
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さて、ここで最初の戦後復興の話を戻すと、このような「傷の大小」の問題と「ケアの度合い」の問題だということがわかったからと言って、当然ながら、じゃあもう一度戦争をすればいいじゃないか、という話には絶対にならない。
もし似たような体験があるとすれば、それはこの日本という国においては、南海トラフ巨大地震や首都直下型地震のように、メディアも含めて、大規模災害に直面し、マジョリティの意見がガラッと変わってしまうような、全員が同等に傷つくという体験が必要になるかと思います。
311もあったけれど、311でも変わらなかった理由は、あれが東北だけで、関西はおろか、関東もほとんど無傷だったことは、東北の特殊性で終わらせられてしまった要因だと思います。
肝心なことは、メディアの側、あと今であればインフルエンサーなど声の大きな人たちも同時に「同じ傷」を負うことが、きっとその分岐点となってくるのでしょうね。
だから、もし大きな地震なんかが来て、何もかもがご破産になれば、何かが変わるのかもしれない。でも、そんな結論も、当然ですが、絶対に嫌だなと思う。
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それは、この国に生きている以上、いつか必ずやってきてしまう未来だけれども、それを能動的に心待ちなんかしたくないし、それ以外の方法によって、この各人の見えない小さな傷が正しくケアされて、正しく協力できる道を探りたい。
言い換えれば、人は本当に「大きな傷」を共有しなければ、共に肩を組んで立ち上がることはできないのか。
お互いに、相手の見えない小さな傷にそれでも寄り添い、ケアし合うことができないのでしょうか、どうしても僕は、そんなことを深く考えたくなってしまう。
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当然、こんな複雑な問題における答えなんて簡単には見つからない。
でも、今日語ってきたような視点から、身近な人々の「小さな傷」にも目を向けようと努めて、耳を傾けるだけでなく、耳をちゃんと澄まし、お互いに寄り添う意識を持てば、始められることもきっとあるだろうなあと思います。
そうすることで、少しずつではありますが、より思いやりのある、ケアの行き届いた社会を作り上げていくことができるはずですし、その希望をちゃんと持っておきたい。
さもないとすぐにニヒリズムや終末論に毒されてしまうから。
そして、もしその希望が当たり前となってくれば、その中から「包摂の中の否定」的な文脈もきっと、復活してくる可能性が出てくるんだと思います。
今はあまりにも、それぞれが孤立しすぎて、一人ひとりが癒えない傷を抱えてしまい、それに怯えているひとたちが多すぎる。
それがゆえに、まずはその孤立からしっかりと脱却することが最優先で、その順序を経由することが大事なことなんだろうなあと思う次第です。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/09/05 21:12