この国においては、『竹取物語』の時代から、子どもというのは持たざる者、そんな親にとっての壮大な“ガチャ”のようなものだったのではないか、と僕は思っています。
それはきっと、タダで引くことができる「宝くじ」のような感覚だったのだろうなあと。
ーーー
たとえば、レヴィ=ストロースが贈与論において「女の交換」について語たられたことなんかは、この構造を裏付けるものの一つでもあって、歴史的に見れば、子を産み、特に娘を嫁がせることで、家の地位が上がる可能性なんかは十分にあった。かぐや姫というのは、まさにそういう物語ですよね。
だとすれば、階級移動が可能な“ガチャ”という認識に近いものだったはずです。
あるいは、今年の大河ドラマで描かれるように吉原に身売りされて、親や家の借金返済の手段とされてしまうこともあったわけですよね。
最近読んでいた蔦屋重三郎にまつわる新書の中で、「江戸時代は、家の存続が最も重要な事柄であったために、子を売る親もそれほど罪悪感を抱かず、売られる娘のほうも、家を守る責任感を持っていたため、今とはその感じ方が全然異なっていた」というような説が書かれてあり、これを読みながら、個人的にはものすごく驚愕してしまいました。
子どもの人身売買を通じて、借金返済の手段に用いるというのは、現代の感覚では到底受け入れがたいことですが、当時の価値観の中では、それが「普通」だったのかもしれないわけですよね。
少なくとも、今とはその感じ方が大きく異なっていた可能性は非常に高い。
ーーー
そして、現代において身売りのようなことはないにしても、子どもたちが親のSNSやYouTubeチャンネルの“格好の出演者”として子どもたちが扱われているような構造も、どこかこのような「ガチャの歴史」と重なる部分があるように思います。
つまり、親が自分の子どもを、自らのSNSに露出させるのは、壮大なガチャを無料で引けるという認識に近いのかもしれないなあと。
ーーー
ただし、ここで倫理的な観点のみから考えて、「それは間違っている」と断罪することもまた別の問題を孕んでいるなあとも同時に思います。
なぜなら、現代社会で子どもが「純粋に20年間、一方的に経済的援助を施すだけの存在」となってしまうと、それはそれで「貴族の嗜好品」のような感覚となり、コストやリスクとしてだけ捉えられるようになり、結果として少子化にもつながってしまう。
このあたりは、本当にむずかしい問題だなあと感じます。
もちろん、だからといって「ガチャ的要素があったほうがいい」と言いたいわけでは決してなくて、ただ、そうしたガチャ的な偶然性や労働力としての価値が、人類の子孫繁栄に一定の寄与をしてきたこともまた、事実だよねとも思うのです。
ーーー
もちろん、ここまで読んで「子どもを、ガチャのように考えるなんて時代錯誤甚だしい」と思う人が大半でしょうし、それが真っ当で正しい反応だと思っています。
ただ、注意が必要なのは、現代は「所得格差」以上に「承認格差」が激しい時代でもあるということ。
よく語られるように、多くの人が、お金と同等かそれ以上に「承認」を渇望している。
その結果、「何者でもない人間」が自らの承認欲求を満たすためには、子どもを承認を得るための道具として利用するケースもあり得るわけですよね。
この構造は、実は所得格差を埋めるために子どもを手段として用いていたことよりも、無自覚であるがゆえに、ひどく残酷であり、ある種の地獄のようにも僕には見えます。
ーーー
この点、近年はGAFAのようなビッグテック企業に支配された世界構造を揶揄して「デジタル荘園」や「デジタル小作人」と呼ぶことも増えました。
一部のビックテック企業に与えられたバーチャル上の農作地を、僕ら一般人が必死で日々耕して、そこで得られる個人情報や閲覧情報を、年貢米のように上納し続けているということでもある。
このような世界においては、親が子どもを産み、デジタル農作地を開墾する“労働力”として、ダイレクトに子ども利用しているという見方もできなくはない。
あとは、犬猫ペットなんかもそうですよね。SNSというバーチャルな耕作地を簡単に耕作できる”労働力”として、ペットが用いられていると見れなくもない。
それはちょうど、かつてのリアルな農作地においては農耕馬や牛、鶏が必要とされたように、です。今はペットが、そのバーチャル農作地の開墾の役割を担っている動物たちとも言えると思うのです。
繰り返しにはなるのですが、この承認格差を埋めようとする問題は、実際の農作地の開墾のように悲惨で過酷な労働に見えないがゆえに、世間が無意識にライトに行っていて、余計に根深い問題だなと思う。
ーーー
で、こうした歴史的背景や構造に言及すると「なんて残酷な話なんだ」と思う人もいるでしょう。
でも、僕は今日の話を通じて、現代人の無意識な残酷さを攻め立てたいわけではもなんでもなくて、僕は「こういうものだ」という事実を冷静に見つめてみたいなと思うんですよね。
僕らはいつだって、現代の価値観や倫理観を根底に持ちながら、歴史を眺めてしまう。そして、その問題は既に過去の出来事として完全に解決されたと思い込む。でも、実際には全く同じような構造は現代でも起きている、と。
ーーー
言い換えると、当時においてはそれがあまりにも普通過ぎて、何を問題視しているのかさえ、たぶん当時の人々にはきっと伝わらないと思います。
時代におけるあたりまえは、それぐらい意味わかんないモノだと思うのです。
つまり、今の僕たちが、子どもをSNSやYouTubeに出演させることを当たり前と思ってしまうのと、まったく同じ構造なのではないか、ってことなんです。
「だって、みんながやっていることだから」「それで家族が以前よりも、より良い暮らしができているのだから」「その幸せを目指して、何が悪い」こうした言葉を、かつての社会も、現代の社会も、変わらずに繰り返しているんだと思います。
ーーー
この点、少し余談なのですが、先日のNHKスペシャル「「ゲーム×人類」」で取り上げられた、ブラジルの貧困層が、スマホゲームの世界大会に群がる話も似たような構造だなと思いながら眺めてしまいました。
わかりやすく貧困層出身の男の子を、タワマンの最上階に住まわせてそれを大々的に報道し、eスポーツプレイヤーのシンデレラストーリーを提示すれば、大会を開くだけで多くの人々が集まってくる。ゲーム業界からすれば、全体収益から見ればかなり安い投資なわけです。
まさに、ここにも宝くじと同じ原理が働いているのです。一等が当たれば3億円、でもそれ以外の期待値は絶望的に低い、みたいな話です。
そして、「これはゲームではなく、スポーツであり、サッカーと同列なんです」と言ってしまえば、倫理的な問題はないように見えてしまう不思議。
ーーー
僕は、この「盲目さ」に対して、自覚的でありたいなと考えています。
なんとかその構造の相似形を問い直してみたい。「はたらくを問い続ける」っていうのはそういうことだと思うんですよね。
なんでもかんでも保守的になって「前時代的な価値観に立ち戻れ!」とも思わないし、「新しいものは何でも我先に飛びつけ!」とも思わない。
新しい技術が生まれてくることを粛々と認めながらも、過去の歴史の中から学び、現代にも同様に起こっている構造に対して、自覚的でありたい。
時代が進めば、搾取構造というのは、よりクリーンで安全で、一般人にとってもわかりにくいもの、むしろ歓迎されるものに変わっていくことも、当然の帰結なわけですから。
歴史が経過して未来の視点から振り返られたときに暴かれるだけであって、その時代を生きているひとからしたら、ひとつの正当なライフスタイルぐらいにしか見えないのだと思います。
ーーー
で、長年Wasei Salonを運営してきて思うのは、現代のあたりまえの価値観を疑いうこと。それが、Wasei Salonの「メインコンテンツ」なのではないか、ということです。
なぜなら、現代社会においては、そういう場が存在していないからです。考えられるだけの余白があることが、今大きな価値だと思っている。
言い換えると、現代の評価軸に安易に乗らないことそれ自体に、価値があるのではないかって思うんですよね。
「それって何だろうね…?」とそれぞれに考え始めた時点で、すでに対話は始まっていて、行動それ自体よりもむしろ、その考え始めた対話こそが、真のコンテンツなのではないかと本当に強く思います。
「手段の目的化」のように「目的の手段化」のような考え方だと思われるでしょうし、「なんて天の邪鬼な…」と思われるかもしれませんが、やらないことが”やる”ことであり、普段は絶対に立ち止まらない場所でみんなで立ち止まってみる営みこそ、Wasei Salonの真髄ではないかと改めて強く感じ始めています。
こういう視点をこれからも大切にしながらも、何でもかんでも問いを立てて疑えばいいというわけではなく、これから求められる古くて新しい価値観や「はたらく」を問い続けていきたいなと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/02/10 20:54