Wasei Salonに参加しているメンバーさんが、Wasei Salonに入会したあとに、オーディオブックを聴く習慣を身につけてくれるのは、いつも本当に嬉しい限り。

もちろん、ここでではWasei Salonの対話会や読書会のアーカイブ音声も、広義のオーディオブックという解釈です。

で、そのときの習慣づけのむずかしさなどを聞かせてもらうと、自分の特異性みたいなものを再認識することがあって、それが何かと言えば、僕はめちゃくちゃ聴き流しているなあということ。

そして逆に、サロン内外問わず、多くのオーディオブックに挫折するひとたちを見てきた経験を通して思うのは「そうか、聞き流せないのか」と思う。

聴き流すっていうのも、ひとつのスキルなんだなと自覚しました。

僕は、自分に興味関心がないテーマや、読んでいない本の読書会なんかも、ストレスなく聴くことができてしまうのですが、まじめな人ほど「全部残さず聴き取らなきゃ!」となるみたいなんですよね。

でも、本来は丁寧に聴くことと同じぐらい、聴き流すことも大事だと思う。今日はそんなお話です。

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この点、誰にでもわかりやすいのは,テスト勉強の参考書を読む態度です。

最初から参考書の細部を理解しようとしてしまうと、必ず挫折する。

オーディオブックとかも全く同様で、最初から全てを理解しようとすれば、一倍速でもむずかしいと思います。

聴覚しか使っていないわけですから、空間的に理解する必要がある話なんて、まず音声ではむずかしいと思います。

で、倍速で聴いていて引っかかるというのは、順接ではなく、理解しにくい話なんです。そういう話は、大体応用編だったりもするから、まずは大枠の理解のほうが大事。

メインのメッセージを受け取ろうとすることに、注力するべきで。

で、それをやるためには勇気をもって聴き流す。僕が3〜4倍速でオーディオブックを聴けるのも、大部分を聴き流しているからです。

その時に同時に大切にしている心づもりは、もう一回聴けばいいと思ってもいるから。

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とはいえ、案外それだけで事足りることも多いのが、オーディオブックの面白いところ。

最後まで聴き終えてしまうと、途中で引っかかりそうになって聴き流した部分の意味も、あとから理解できるようになる。

これは著者と、リズムが合ってくるからなのでしょうね。

著者が言っていること自体は、章ごとに異なっていても、そのリズムは変わらない。だとすると、まずはその著者の視座とリズムを理解したほうがいい。

大枠を全部聴いたほうが話が早い、というのはそういうことでもあります。

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で、これはオーディオブックに限らず「対話」においても、まったくそうだと思うんですよね。

そして、今日の本題もここからです。

「相手の話を最後までちゃんと丁寧に聴く」には、いつだって「聴く流す」という態度も含まれていると、僕は思っています。

言い換えると、ちゃんと「受け止めてもらえている」と「聞き流している」は、見事に両立できる。というか、両者は密接不可分の事柄でもあると思っています。

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にも関わらず、現代は「聴く」があまりにも重要視されすぎて、一言一句聴き逃さないように耳を傾けることが善とされています。

でも、大事なのは「適度に聴き流したうえで、また会おう」という意志のほう。その継続的なつながりのほうであるはずなんですよね。

次があると思えるから、お互いに聴き流せる。

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これは東畑開人さんの書籍『雨の日の心理学』の中でも、似たようなことが語られてありました。

余談ですが、僕はこの本が発売されてすぐにKindle版で読み、Wasei Salonの中で読書会も開催しました。最近オーディオブックが発売されて、またもう一度聴き返した。

まさにもう一度出会い直したわけです。

そうすると、以前とは異なる部分に反応をし、今日の話と関連して、そこでとても大事なことが語られてあったなと気付いたわけです。

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じゃあ、それがどんな内容なのか?

本編ではなくコラム部分の内容であって、コラムにはQ&A形式で書かれてあり、以下のような問いが掲げられていました。

「相談されたからには、ちゃんと何かしら答えを返さねばならないのではないか、でないと私に相談した意味がないんじゃないか、と思ってしまいます。気の利いたことを言わなきゃなどと考えず、ただ「きく」ためにはどうしたら良いでしょうか。」


この質問に対して、東畑さんは「最終奥義がある」と前置きしたうえで、

「『ちょっと考えとく』 これです。『また話そう』の変法ですね」と語ります。

いいアドバイスが思い浮かばないときは、その場で無理やり答えようとするんじゃなくて、いったん時間を置くといいんですよ、と。

この話はとても共感するし、見落とされがちだけれど、とっても大事な視点だなと思います。

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多くの人は「自分の話が聴き流された」という悲しい過去があるから、優しい人ほど、あまりにも相手の話を集中して聴き過ぎてしまう。

でも、それはそれで自分が辛いわけです。なぜなら、常に集中し続けけなればいけないから。

それは、体力も使うし、とても辛い。ネガティブな話であればあるほど、そこに転移も起きるわけですからね、相手と共に苦しんでしまう。

だから、徐々に相手のことも無意識のうちに遠ざけてしまう…。

オーディオブックを徐々に聴かなくなっていくひとを山ほど観てきましたが、大抵の場合は、このように一言一句聞き逃さずにちゃんと理解しようという真面目な人に多かった印象です。

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でも、そうやって一言一句聞き逃さないようにという態度によって勝手に疲弊し、次の機会がないことが、いちばん「私の話は、聴かれていない」という印象を相手に与えてしまう。

言い換えると、適度な距離感で会い続ける、つながり続ける、そんな「頻度の問題」で簡単に解決できることもあるわけですよね。

だから、「即答しない=逃げ」ではなく、むしろ関係性を続けるための知恵なんだと思いたい。

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あと今日の話は、「一期一会」みたいな概念とも、一見するとバッティングするように見えるはずです。

でも、これが最後かもしれないとされると、相手からすれば重たすぎる。

もちろん、一期一会は大事です。その気概は否定されるべきものではない。

つまり、一期一会というような普遍的な観念だって、いつだって常に相手目線であるべきで。一期一会の独りよがりは、お腹いっぱいな人に対して、勝手に豪華な食事を用意して、勝手に疲弊しているようなもの。

そんな身勝手な行動は、しらんがな、なんです。しらんがなだから、みんな無視して離れていく。あのひとは重たすぎると距離が置かれる。

それよりも、マンガ『葬送のフリーレン』でも描かれていたように、ライトに「またね」ぐらいがちょうどいい。

特に現代のような、余計なお世話になりがちな現代は一回ずつを重たくするのは、むしろ逆効果です。

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もちろん、聴き流して、なおかつ、もう相手とは二度と会わないというのは一番最悪であることは言うまでもない。

そうじゃなくて、丁寧に「聴く・受け取る」を意識したうえで、なおかつ適度に聴き流したり適度に受け流したりして、それでもって、また気軽にライトに会えばいい。

言い換えると、お互いに、その時間経過を信頼し合えばいい。実際にまた会えるかどうかは関係ない。

その時間に自分たちの関係性を付託する感覚と、継続的なつながりや回数のほうが本当はとっても大事なんだよあと思います。

そうすれば、「なんで今聴き流したの!?」という、メンヘラもお互いに発動せずにすむわけだから。そう思い合うことができているコミュニティや共同体のほうに価値があるなと僕は思います。

ちなみに神話のような物語に、この「時間の魔法」が描かれていることは、ある種の必然でもあると思っています。(映画『ファーストキス』も、時間の話だった)

言い換えると、このときに「永遠の同伴者」も立ち現れてきてくれるのかもしれませんね。

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その上で「何度も会う」を繰り返し、お互いに共振や共鳴をするようなリズムにたどりつけるようになる。

繰り返しますが、1回で何事も解決しようとするから、問題がややこしくなるんです。

二項対立は、その場を切り取り、その場限りの2次元的な話。そうじゃなくて、3次元で時間を味方につけていきたい。

世界においても、発酵でも投資の複利でもなんでも、その時間と頻度を味方につける感覚はとっても大事。

先ほどの『雨の日の心理学』の中でも、以下のように続きが書かれてありました。

”このとき処方されているのは延長戦であり、時間です。相手にとっても、自分にとっても、延長戦にすることで、つながりは持続するし、次に話すまでの間に時間の治癒力が働きます。時間によって案外情勢も変わってくるものですし、そのあいだに第三者の知恵を借りることもできる。切迫した話については、ゆっくり考えるのが鉄則です。”


こちらも、本当にそのとおりですよね。

ここで、ぜひ養老さんが語られていた「ホイヘンスの振り子時計」の話もぜひとも思い出してみて欲しい。


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今日のような「聴き流せる」気軽さが、コミュニティという継続的なつながりを生み出す場が持つ力でもあるよなあと僕は思っています。

一期一会の「哲学カフェ」のような場では、決して得ることができない魅力のひとつでもある。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。