贈与には「一旦私有化して、それを他者と共有化することによって、コモンになる」感覚というのは、間違いなくあるよなあと思います。

それは昨日も語ったとおりです。

そして、タイトルにもあるとおり、贈与するとなぜ「共有化」した気持ちになるのか?という問いもまた、とてもいい問いだなあと感じました。

僕も昨日、自分自身が実際にNFTの贈与行為を行ってみて本当に強くそう感じています。

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で、これと似たような話として思い出したのは、抱樸の奥田知志さんと、桂大介さんの対談動画内で語られていた「贈与をすると、自己を複数化しているような感覚」になるというお話です。


桂さんは「無関心はあるけれど、世の中に無関係な事柄はない」という話を語りつつ「まずは贈与という行為から始めてみることが大切だ」と語られていました。

その後に関係性が始まっていくし、結果として関心も高まるというようなお話を、僕のザックリとした意訳ではありますが語られていました。

これを聞いて本当に強くそう思ったんですよね。つまり、順序が逆であるという話です。

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じゃあ、なぜ贈与をすると自己を「複数化」することができて、それがNFTの場合は贈与の受益者と共に「共有化」したような気持ちになれるのか。

それは、たぶん相手と自分との間に、新たな「物語」が生まれていくからだと思います。

ここからが今日の本題であり、僕の一番の主張でもあります。

言い換えると、相手との間に物語を共有できたとき、僕らは自己が複数化するとか、他者とその物自体を共有しているとか、そのような感覚を感じることができると思うんですよね。

これはきっと、具体例をお伝えしたほうがいいと思うので、昨日まさにWasei Salonメンバーのかあいさんに対して、僕がCNPを贈与させてもらう機会を実践したことによって感じられた話を、ここでご紹介したほうが良いかと思います。

詳しい物語の内容は、かあいさんがご自身のスタエフでわかりやすく丁寧に語ってくださっているので、ぜひともそちらを聞いてみていただきたいのですが、

https://stand.fm/episodes/665cfdc83bfdb250c68429be

この贈与のやりとりを通じて、まさにその瞬間に、過去が遡及的に振り返られて、一気に物語が立ち上がっていく感じがしたのです。

言い換えると、僕らがこの場を通じて出会ったそのランダムな流れ自体に、意味性みたいなものが付与された気がしたんですよね。

それまでのひとつひとつの出来事は、完全に断片的で、不規則なカオスだったにも関わらず、です。

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たとえば一例で言うと、僕はCNPのNFTをセカンダリーマーケットで手に入れるときに、フロアの下の方から、価格的に安いものを淡々と拾っていくようにしているだけです。

特定のキャラクターに思い入れがあったりするわけでもないので、何か恣意的に選んでいるわけではありません。

当時たまたまそうやって拾っていただけなのに、自らが保有している多数存在している個体の中から、能動的に「かあいさんらしい」とソレを選び取って、かあいさん宛に贈与したことによって、

その個体を自分があのときに拾っていた理由、その意味は間違いなくこの瞬間のためにあったんだと訂正可能性的に(遡行的に)生み出される実感が、間違いなくあったのです。

あー、これこそが「物語」の効果効能そのものだなと思いました。

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いまものすごくわかりにくい話をしてしまっているかもしれないですが、それまでは、本当にただのランダムな記号の配列でしかなかった「NFT」なのに、宛先を伴った贈与を行おうとした瞬間に、すべてがバババっと立ち現れてきた。

それは、点と点が線でつながる、といった平面的な感じではなく、もっと石の塔が音を立てて立ち上がっていくようなイメージに近い。

きっと、もしこのことと真逆のことが起きて、相手から何かを恣意的に奪おうとして利己的な行動に走ろうとした瞬間には、ソレまでに紡がれていた物語、つまり石の塔は音を立てて崩れ去るんだろうなあとも思います。(結婚詐欺問題の話にも、これはとてもよく似ている)

つまり、ここで何を言いたいのかいえば、贈与という行為を通して、ランダムに存在していた何気ない事象に対して、お互いに「物語性」を付与し合うことができるんだなあということです。

そのときに初めて、目の前のただの画像データでしかないただの記号が、「唯一無二」のNFTに”成っていく”感覚があったんです。

「つくる・うむ・なる」の三類型の話で言えば「なる」の感覚、そのものです。

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そしてこの事実に、僕はものすごくハッとしたわけです。

「あー、『なる』っていうのは、カオスの中に存在してきた断片的な出来事を、ブリコラージュ的に用いることによって、物語を紡ぐという行為そのものだったんだな」と身体感覚を通してなんだか腹落ちした感じがしました。

目の前に存在する個体それ自体、データそれ自体は何も変わっていないのに、僕がかあいさん宛に贈与をさせていただくという行為を経由したことによって、そのような物語がずっと前から本当は存在していたかのように立ち現れてきたこと自体に驚きが隠せない。

よく耳にする話で言えば「過去は変えられないけれど、過去の意味は変えられる」みたいな話とも、非常によく似ているなと思います。

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さて、ここまでの話をまとめると、個々人にとっての「価値の創出」とは、ニアリーイコールそれは「物語の創出」なんだろうなと思います。

そして、その物語自体を共有や共感しているひとが多ければ多いほど、その物語に紐づいた唯一無二の限定性があるものになり、客観的な価値も同時に宿っていく。

それが「共通の物語」になるわけですよね。

ほかにもたとえば、ただの野球ボールだったものが、大谷翔平の記念すべき何百本目のホームランにつながったら、そのボールに勝手に「物語」が宿るように。

だとすれば、コミュニティ活動を通して客観的な価値を生み出すということは、信頼できる人、つまり物語の価値を毀損しない信頼をおける人と、その物語をゼロから共に紡いでいくことにほかならない。

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ただ、ここで、これまで語ってきたことを全部ひっくり返すようなことを語ってしまいますが、割とそのときにはもう「価値」なんてどうでも良くなっているなあとも同時に思います。

なぜなら、そのときには、自分自身がもう完全に変わってしまっているから。

その「物語」の主体になっていくと、それ自体が癒やしとなり『利他・ケア・傷の倫理学』にも書かれていたような「セルフケア」にもつながっていく。

端的に、その新たな物語が「目的」となり、自分のためにつながるんですよね。

自分自身が過去の自分と変わってしまうという体験を通して、最初の目的が喪失してしまうと言い換えてみると、よりわかりやすくなるかもしれません。

その最初の目的も、この物語に到達するまでのフリに過ぎなかったんだなあと感じてしまうほどです。NFTで言えば、客観的な価値の値上がりは、本当におまけみたいなもの。

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で、コミュニティの本当の凄さは、私とあなただけではなくて、それを集団単位で構築することができることだと思います。

物語を書き換えて構築し、共にセルフケアの彼岸へと到達できること。

その変数がめちゃくちゃ多くて、物語が生まれやすいのが、コミュニティのおもしろさです。

で、それ自体が、客観的に価値を持つことにもつながる。だとしたら、必然的に市場の価値も上がらざるを得ない。

その客体やコンテンツ、場を巡ってたくさんの物語が存在しそれが共感されるわけですから、そこには客観的な価値が自然と生まれてきてしまうんだと思います。

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ただ、さらにもう一度話をひっくり返しますが、同時に、そこで生み出した「物語」に執着をしないことも、とても大切だなあと感じています。

ある意味では、紡いだ物語を忘れてしまうこともとても重要。

粋と野暮の、野暮になっちゃいけない。

この点、昨日もご紹介した松岡正剛さんの『日本文化の核心 』という本の中に、「通」とは何か?という話が語られてありました。

通とオタクは、なんだか似ている部分があるなと思いつつ、通にはどこか粋な感覚があって、オタクには多少野暮な感覚がありますよね。

じゃあ、通とは本来どういう意味だったのか。以下で本書から少しだけ引用してみたいと思います。

「通」は「通じる」からきたコンセプトで、カッコいいことならとことん通じているという意味をもっています。     だから「芝居の通」から「植栽の通」まで、「和算の通」から「相撲の通」まで、どんなジャンルにも「通」がありえました。
(中略)
これをまねする者もたくさん出たのですが、こちらはたいてい「半可通」と呼ばれて、ダサイ目にあいます。また、まったく「通じていない」者たちは、まとめて「野暮」とか「野暮天」とみなされました。     
私は「通」については、日本文化を語るにふさわしい用語を思いついたものだと感心します。「詳しい」ではなくて「通じる」という言い方がなかなかなのです。詳しくなりすぎて袋小路にはまるのではなく、気になる「そこ」を通りすぎていくというイメージがあって、そこがスタイルやモードを重視する様子や様相をのこしていて、なるほど、なるほどなのです。 川久保玲のコム・デ・ギャルソンと山本耀司のヨウジヤマモトは昭和後期に新たな「通」を提示しえたと私は見ています。


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もしかしたら、このただし書きのような話自体が、今この瞬間において野暮なのかもしれないけれど、でも「通」であろうとすることも、本当に大事だなと思う。

「こちら側とあちら側、現実と虚構、あの世とこの世」さまざまな「あわい」を生み出していくことが、物語を紡ぎ出すということなんだけれども、そのあわいの心地よさに浸りすぎずに、ちゃんとそこを通り”過ぎる”こと。

そこで立ちあらわれてきた物語に対して、執着しすぎないこと。執着しすぎると、オタクの執念や、古参たちの無駄なマウント合戦にもつながってしまう。

詳しくなりすぎてしまうと、袋小路にはまってしまう。

物語を紡ぎつつも「じゃあ、またね」ぐらいのテンションで過ぎ去ること。いま本当に大事な視点だなあと思います。

漫画「葬送のフリーレン」の軽快さというか、どこか軽い感じというのもまた、このあたりが若い世代を中心に刺さっている気がしています。

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「贈与」によって物語を紡ぎ出すことと、一方でそこを通り過ぎていくこと。そこに生まれる風通しの良さ。

これらは同時に語っておく必要があることだなと思ったので、野暮であることを承知の上で、最後に語っておきました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。