「贈与がある世界への憧憬」について、先日Twitter上に投稿しました。

この話をイケハヤさんもVoicyの中で拾ってくださっていたので、もう少し僕のほうでもこのブログで深めながら考えてみたいなと思います。

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これは、先日もご紹介した近内悠太さんと桂大介さんのゲンロンカフェのイベントの中で語られていた話であって、僕がものすごく強く膝を打った話です。


「なぜ今、85年の生まれのおふたりが同時に『贈与』に注目しているんですか?」

そんな質問が、近内さんと桂さんに向けられていて、お二人は「寂しさ」というキーワードをあげながら「贈与があった世界への憧憬」があるという話をしていました。

僕自身も88年生まれなので、とても共感するお話でした。

贈与に関してはとても強い興味関心を持っていて、その理由は間違いなくこの「憧れ」にあるなと思います。

昭和世代のようにお中元やお歳暮など、過去の過ぎ去ったものは今さら復活はできないし、実際そんな世界の関係性に、現代を生きる僕らは住めないし、きっと耐えられない。

でも一方で、その贈与の中に立ちあらわれていたはずのネットワークには憧れを感じていて、すべては自己責任の自己調達になっている世界に孤立や「寂しさ」も抱えていて、昔ソレが機能していた世界に対しての素直な憧憬がある。

そして、web3の文脈であれば、今の時代にあった新たな形でリバイバルが可能だと思っている、それが僕の仮説です。

ただ、一般的には、儲けたくてNFTやトークンを買っているのだから、それらを他人に贈与するなんて「意味がわからない」になる。

「贈与することによって価値が高まり、巡り巡ってみんなに価値が還元されるんだよ!」という話を説明してみたところで胡散臭く感じられて、これを伝えるのが本当に難しいことだなあと。

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じゃあ、そもそも、大前提として、なぜ贈与という文化自体が廃れてきてしまっているのか、そこから考え直してみたい。

それはきっと、多様性が僕らの物語を分断させてしまっているからなんですよね。

日常的に営んでいるそれぞれの劇やゲーム自体が違うから、「物」を贈ることがとても難しい。

相手にとってバフの効果がありますようにと、そんな願いを込めて贈ったものが、デバフにしかならない。

贈与は相手を間違えるとそのまま「呪い」にもなりえるわけです。

言い換えると、みんなが欲しいもの、贈られて喜ばしいものがほとんどなくなった世界が、まさに今でもあるわけです。

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多様な世の中になると、原理上、贈られて嬉しいものは「現金」だけになってしまう。

ほぼ現金と同等のアマゾンギフト券が、これほどまでに重宝されているのもソレが理由。

でもそうすると、ドンドン現金至上主義みたいにもなっていく。

この点、心理学者・東畑開人さんは現代は「社会の小舟化」が進んでいると以前何かの本で書かれていましたが、本当にそうで。

現代社会に存在する閉塞感はきっと、この社会が大船だったところから小舟に変わっていく中で叫ばれた、コスパや効果的利他主義のような価値観が元凶となってしまっている。

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だからこそ、このような世の中においてNFTやFiNANCiEトークンのようなFTはプレゼントや「贈与」に用いるのが一番良いと思うんですよね。

それは本当に困ったときには現金としての交換可能性も含みつつ、そこに新たなネットワーク効果みたいなものも同時に生まれてくるわけですから。

それは関係性の「終わり」じゃなくて、関係性の「始まり」を意味してくれる。

一度つながったチェーンの記録は消えることがない。せっせとその配電盤の線をつないでいる感じにもなり得るわけです。

つまり、終点ではなく、関係性の出発のコミュニケーションの発露になるんですよね。「これからお世話になります」という挨拶的な意味も、そこには自動的に含まれるわけです。

ネット上のコミュニティ活動って、そもそも「物語を共有し続けよう」という意志のあらわれでもあるわけですからね。

別に物理的空間を共にしているわけでもないのに、わざわざそれでもネット上に架空の囲いをつくって、同じ空間に集まり続けようとする営みなわけですから。

「物語は続いていく、決して終わらない」ということを確認し合っている状態がコミュニティ活動とも言えそうです。

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ここで少し話はそれるけれども、地縁・血縁、家柄のような古めかしいホコリを被ったような話も実はここにつながるなあと最近よく思っています。

現代人は、このようなものに「価値」や「資産性」があるなんて思っていない。だから軽々と地元を捨て去るし、血縁や家柄なんかもメンテナンスしようとしない。

政治家や地主、名家でもない限り、ジバン・カンバン・カバンみたいな話には、誰も興味がない。でも昔は地縁や血縁は「無形資産」の極みみたいなところがあったんだと思います。

それは、先代たちが積み重ねてくれた「贈与」による「信頼」の賜物にほかならないわけですからね。

僕らはきっと、この広義の「イエ」のブランド性のようなものを、もっともっと理解したほうが良いはずで。

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この点、最近オーディオブックで改めて聞き返していた松岡正剛さんの『日本文化の核心』という本に、とてもおもしろいことが書かれてあったので、ここで少しだけ引用してみたいと思います。

かつての日本ではながらく「家柄」や「家格」がブランドでした。今日では企業がつくりだすブランド商品がブランドの代表になっていますが、そしてそれはマーケティングによって成功するかしないかが決まるとみなされていますが、かつては家そのものがブランドであり、レガシーだったのです。     
(中略)
なぜ今日の日本で家柄や家格がブランドにならなくなっているかというと、おそらく戦後の財閥解体以降、家柄の歴史を語ることが軽視されたり、反発されたりするようになったからです。いまでは三井や三菱や豊田は「家」ではなくなったかのようです。それとともにハイソサエティもなかったかのようにしている。これも華族の廃止とともにそうなったのでしょうが、しかしこれはおかしい。どこかで歴史を忘却しようとしすぎです。


この話は、本当にそう思います。

敗戦の記憶とともに、日本はこの歴史を忘却しようとし過ぎな気がする。

そして松岡正剛さんは、ブランドとしての家は、日本ではながらく「公家」と「武家」が代表してきたのだと語ります。これもきっと、そのとおりなのだろうなあと。

以前もご紹介したことのある中公新書から出ている『贈与の歴史学』という本の中では、まさにこの公家と武家の贈与の話が、延々と書かれているのです。

そこで一体何をやっていたのかといえば、ネットワーク効果をせっせと生んでいたということだと思うんですよね。

ただし、戦後の財閥解体や1960年代の学生運動など、イエの負の側面ばかりに光があてられて、無形資産はことごとく解体されて、あたかもそれは資産ではないように思わされてしまった。

そのかわり、資本主義にとって一番都合の良い「金融資産」のほうばかりに注目させられてしまっているのが、きっと僕らの世代なんだと思います。

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でも、たとえば京都のような町にいけば、未だにそのような文化も残っていると聞きます。

以前もお話したように、京都では100年以上続く企業はあたりまえで「先代にお世話になったから」という理由で、当たり前のように次を継いだあまり出来の良くないバカ息子であっても、みんなで必死に面倒を見ようとするそうです。

そうすることで、自分たちのイエもまた、子や孫の世代が同じように助けてもらうことができるかもしれないから。

僕はこの話がとても印象的で今でもよく思い出します。

日々の中で繰り返される贈与もまさにそうで、自分たちのイエや集落共同体に対する「祈り」みたいなものだったはずなんですよね、もともとは。

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このように、本来は、資産価値を高めたければ贈与行為は積極的に行ったほうが良い。

価値を退蔵させてしまっては、決してその「無形資産」は立ち現れてきてはくれない。というか、ちゃんと運用されていかない。

ここではあえて、わかりやすいように俗っぽく「資産価値の増減」の話で語りますが、贈与をすることによって、そこにネットワーク効果が生まれて、無形資産を含めた総資産は、圧倒的に増加するわけです。

その真実に対して、どうやってコミュニティ単位で気がついていくか。

しかもそれは、現代であればなにか既存の「嫌味な権威」におもねる必要もないわけですよね。新たにゼロベースで生み出すことできるようになっているのも、web3文脈の強みです。

みんなが家族単位どころか、個人単位で金融資産の運用に躍起になってしまっているような現代だからこそ、実はここに、現代の革新性や革命性が潜んでいるんだと僕は思います。

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言い換えると、次世代に残すことができるのは、家や土地、株式などの金融資産だけじゃないってことです。

いわゆる「コモンの再生」のような議論と同様で、一度私有してから公共物として開放するという話も、贈与とまったく同じ考え方をすることができる。

このあたりはたぶん、意図的に見落としてしまっている(社会構造から見落とすように仕向けられているもの)がかなりあると思うので、引き続き積極的に考えていきたいところです。

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最後に、これは完全に蛇足で極端な仮説だと思われるかもしれないけれど、鎖国していた日本が、黒船来航でも植民地にならなかったのは、武家も貴族も、贈与によって構築されていた強烈なネットワーク効果を築いていたからだと思う。

それが明治政府を生み出したし、欧米列強の脅威にも太刀打ちできた理由でもあるんだろうなと。ゆえに、GHQはそんな財閥をすぐに解体させた。

いたるところで語られている話だけれど、アメリカのディズニーが日本にディズニーランドを作ったときに、唯一誤算だったことは、世界に類を見ないお土産文化だったというのも、きっとその名残り。

もちろん、それが特権手階級的になってしまったり、再び家柄や門地で差別されることになったりすることは決してあってはならないけれど、贈与することによって、コモンのように用いることができる「資産」の存在は徐々に復活させていきたい。

このきめ細やかさや、お互いに配慮しあうことができること。これこそ、世間の空気を読める日本人の強みだと思うから。それをネガティブ面としてではなく、ポジティブ面として復活させていきたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となっていたら幸いです。