昨日、こんなツイートをしてみました。


そして、この内容に関連して、最近よく思うのは、ビジネスというのは、既存の秩序を破壊すればするほど、成功するものなのだろうなあということです。

言い換えると、「スクラップアンドビルド」が単純に一番儲かる。

「市場原理に晒せ!」という新自由主義的な主張というのはつまり、「スクラップアンドビルドを健全に行い続けろ!」っていうことなのだと思います。

それは何一つ間違っていないと思います。

世界中の中における「日本」という国の競争優位性を保つためにも、絶対に必要なこと。

そうしないと、今の日本の「裕福さ」は保てない。それは本当にごもっともの主張です。

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たとえば、Web2→web3の変化なんかは非常にわかりやすいですが、そうやって社会の構造やそれを担っている大企業が健全に交代してくれれば、破壊と建設が始まるので間違いなく儲かります。

そして、より現代社会の特殊性にあったかたちで、合理的でピカピカな仕組みが生まれてくることは間違いない。

それはたとえば、FAXや登記簿謄本がなくなって、すべてがチャットコミュニケーションに移り変わり、その契約もすべてスマートコントラクトになるようなものです。

絶対にそのほうがいい。

誰もがより便利に、より簡単に、不正なんかも一切なくなって、本当に願ったり叶ったりです。

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でも、それらをすべて理解した上で、いま改めて考えたいことは、そのように破壊を繰り返すことは、本当に人間にとっては幸福なことなんだろうか、ということです。

以前、政治学者・中島岳志さんの「リベラルと保守の違い」についてご紹介したことがあります。

リベラルと保守の一番の違いというのは、既存の「秩序」の捉え方にあります。リベラルからすると、自らを縛る「秩序」は常に解体するべき対象であって、その先に立ち現れる未来は知らん、という一貫した立場であり、逆に保守は、「秩序」というのは簡単に立ち現れるものではないのだから、そう簡単には壊してはいけないという立場です。


リベラルの主張というのは、基本的にいつも同じ。破壊のほうに主眼がある。

たとえば、「リスキリング」という言葉の真意は「労働の商品価値は最新の『スキル』であって、従来の職場で構築されていたような秩序や、人間同士の信頼関係なんかは何の価値もありません」って言っているようなもの。

そして「あなたたち労働者は、は労働力という商品を売っているのだから、その商品価値を高めて、更に高く買ってくれる場所にその労働力という商品を売りに行ってください」と言われているわけです。

「それが安く買い叩かれている状態は、国にとっても不利益ですし、あなたたちの生活はいつまで経っても良くはなりませんよ」と。

本当にごもっともな主張だと思います。

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でもどちらかと言えば、僕ら人間というのは、そういった秩序や人間関係を構築していくことのほうに、喜びを感じる生き物のようなのです。

一方で、そういう秩序や人間関係というものは、資本主義には一番邪魔なもの。

だって、本来助けなくていいひとを「人情」で助けてしまったり、人間同士で癒着してみたり、ときには賄賂を渡してみたり、といろいろな非合理なことが生まれるわけだから。

スクラップアンドビルドを定期的に繰り返し、新陳代謝を繰り返したほうが良いに決まっている。

そこにある人々の関係性は、常にリセットしましょうということなのです。

でも、秩序や人間関係を作り出すことが嬉しいのは、多くのひとがたぶん自らの人生の中で実感しているかと思います。

たとえば「家族をつくることと、家族を壊すこと」どちらに喜びを感じるひとが多いのか。それを考えれば簡単にわかることだと思います。

だからこそ、ここには常に「体験を求めているのに情報がきてしまう」というような東浩紀さんが語っていたようなジレンマが生じてしまう。

https://wasei.salon/blogs/aa46036abb9c

資本主義は幸福のためにある仕組みではない。圧倒的に「他者」なのです。

https://wasei.salon/blogs/88403c7e80d8 

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この点、最近Wasei Salon内で読書会を開催した『しあわせの哲学』という本の中に「幸福」の3つの意味が紹介されていました。

以下で少し引用してみたいと思います。

整理してみると、幸福という言葉には、三つの意味があることがわかります。     第一は、「人生の目標」または「理想の人生像」を指します。「人生はこうあったらいいなあ」という理想のイメージを、幸福と呼ぶ。人によっていろんな幸福(=理想像)があります。     第二に、「幸福感」を指します。喜びに包まれて満たされている感覚を「幸福」「しあわせ」と呼ぶ。     第三に、「幸福だという認知」を指します。自分の人生を肯定しつつ、感謝することです。

(中略)

幸福感を伴う体験について語ってもらうと、単なる「ここちよさ」を語る人は少なく、人との関係から生まれるものを語る人が大半です。かつ、そこに時間の経過、つまり物語的な背景をもつことが多いのです。


つまり、結果にはほとんど幸福感は感じずに、その過程の方に人間は幸福を感じているという場合が多いわけですよね。

ただ、その結果を目指し続けないと、その過程が立ちあらわれてきてはくれないことも確か。

でも僕らはいつまでそうやって「労働の疎外」に苦しめ続けられるのかなあと僕なんかは思ってしまいます。

完全に、主従が逆転しているような状態。

最近、ブログに書いた話で言えば「ネタをつくるために旅をしているような状態」が人生という旅の状態で続いていると、言い換えても良いのかも知れません。

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この点、NFTがおもしろいなあと僕が思うのは、ファウンダーのみなさんが「このプロジェクトは一生続けていく」と語るひとが多いという事実です。

「The Mafia Animals」のファウンダーであるリツさんも、先日「TMAsは僕が死んでからも価値が上がるコレクションにしたい」とツイートしていて、本当に素晴らしい宣言だなあと思いました。

これは、決してポジショントークではないと思う。NFTコミュニティには、そう思わせる何かが間違いなくある。

そこに現代社会が置き去りにしてきた秩序が立ち上がり、継続する「共同体の可能性」を直観的に感じ取っているからだと思うのです。

そこで生み出された秩序(ルール)や人間関係から、多幸感のようなものを感じているからなのでしょうね。

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こんな言い方をすると元も子もないですが、どうせ、これからはAIのおかげで(せいで)ホワイトカラーの仕事はほとんどなくなります。

どれだけ時代をキャッチアップして、リスキリングしてみたところで、そんな人間の血の滲むような努力をあざ笑うかのように、更にAIはその上を行くスキル(システム)を無慈悲に公開してくるでしょう。

最後に人間に残されるのは、あまりにも非エッセンシャルで、見るひとがみれば完全にブルシット極まり仕事だけになるはずです。

でも、そこにこそ、本当の幸福もあるはず。まだまだうまく言えませんが、本当に強く思います。

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最後に、今日のお話に直接関連するかどうかはわからないけれど、僕が非常に感銘を受けた哲学者・永井均さんの『これがニーチェだ』という本の中の一節をご紹介して、終えようと思います。

人生の価値は、何か有意義なことを行ったとか、人の役に立ったとか、そういうことにあるのではない。むしろ、起こったとおりのことが起こったことにある。他にたくさんの可能性があったはずなのに、まさに これ が私の人生だったのだ。そこには、何の意味も必然性もない。何の理由も根拠もない。その事実そのものが、そのまま意義であり、価値なのである。

(中略)

ニーチェは、人生に意味がないことに耐えて生きて行かなくてはならない、などという辛気臭いことを言っているのではない。むしろ、意味のなさこそがわれわれの悦びの根源だと言っているのである。


いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。