自分の中で葛藤がないひと、完全に割り切ってしまっているひとが僕は苦手だ。

「考えると、悩むという行為は異なる」という話は本当によく耳にする。

だから「悩むな、考えろ」と言われているけれど、そもそも「考える」と「悩む」なんて、そんなにキッパリと切り分けられるものではない。

あとから振り返れば、確かにあのときは「考える」ではなく「ただ悩んでいただけだった」という評価は可能かもしれないけれど、自分がその渦中にいるあいだは、なかなか気付けるものではない。

食事に喩えてみると、「情報を食べるな、栄養を取れ」と言われたって、いま自分が空腹状態で目の前にある食べたいと思っているこれは果たして「情報」を欲しているだけなのか、それとも「栄養」を欲しているのかは、そんなにスパッと切り分けられるものではない。

あくまでも、グラデーションの問題。事後的に評価可能になるだけだと思う。

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もちろん、なるべくであれば、悩まないことに越したことはない。

だけれども、そうやって悩むことを恐れすぎてしまったがゆえに、完全に悩むことを放棄してしまった人間は、往々にして考えることも放棄してしまっている場合が非常に多い。

だったら僕は、それでも悩み続けているひとのほうが好きだ。

「自分に嘘をつかない」って本当に難しいことだと思う。言葉にすると、なんだか簡単なようにも思えるけれど、周囲の人々を傷つけないようにしようと思ったら、嘘をついたほうがいいのではないかと、葛藤してしまうことだってある。

そうやって悩むことで、自分自身も傷つくかもしれないからと葛藤から逃げ出すよりも、考えるためなら悩むことさえ恐れるに足らず、そんな心構えや胆力があるひとが僕は好きだ。

そして、往々にして本当に悩みに足を奪われて、ダークサイドに落ちてしまうことだってときにはある。でも、そんなときこそ寄り添い続けて、応援し続けたいなと思う。

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自分の中での葛藤を放棄して割り切った人間の演説というのは、本当にものすごく耳心地が良い。

同じく自分で考えることを放棄している聴衆にとっては、こんなにも感動する話はないと感じるのだろう。

でも、最後の最後まで葛藤を放棄しなかった人間には、その話がすぐに「ダウト」だってわかってしまう。

その結論に辿り着いた当初は、完璧な論理だったかもしれないけれど、時代が変わればその正しさだって常に移り変わっていくもの。この世に割り切れる事柄なんてなにひとつない。

これからも自分の中の葛藤を大切にして生きていきたいなと思う。

いつもこのブログを読んでくださっている方々の何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。