つい数年前まで、「何よりもまずはコンテンツの質が重要だ」という話は至るところで語られていました。
いわゆるアテンション・エコノミーのような話がなされる場合であっても「とはいえその大前提としてコンテンツの質は圧倒的に重要だ」という話が、当たり前のように語られていたことは多くの方が記憶していると思います。
実際にそれは、その通りだったのだと思います。ただし、AIが現れたいま、その言説は変わらずに、有効なんでしょうか。
実はコンテンツの質というのは、最優先事項の地位から転落しているように僕には見えます。
多少語弊があるかもしれないですが、コンテンツの質なんて本当はもはやどうでもいいと市場からは思われているのかもしれない。
そう考えたほうが、世の中の辻褄は間違いなく合うような世の中になってきたように感じます。
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そんなことを考えていたときに、先日もご紹介した東浩紀さんの『訂正する力』という本にとても興味深い内容が書かれてありました。
以下で本書から再び引用してみたいと思います。
ツイッターにせよYouTubeにせよTikTokにせよ、現代人は「ひと」にかつてなく関心をもっている。あるひとが魅力的だと思えば、多少コンテンツがダメでも平気で金を払う。 このような変化を、プロの業界の人間は軽視します。プロはコンテンツの質を重視するからです。小説家は大事なのはまず文章の質だと考えます。ミュージシャンは大事なのはまず音楽の質だと考えます。映像作家は大事なのはまず映像の質だと考えます。当然のことです。 でも現実には消費者はそう動いていない。どう見ても質の低いコンテンツにどんどん金を払っている。
これは本当にそうですよね。東さんは他にも、内容がいいから作品が売れているなどと信じているのは、いまや一部の玄人だけと語られていましたが、本当にそう思います。
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でも、現代でも「コンテンツや商品のクオリティだ!」って当たり前のように語られている状況もあるかと思います。
その背景には、そうやって、「おまえはまだダメなんだ!」「まだまだ半人前なんだ!」と口封じをされてきた世の中でもあるということなのだと思います。
むしろ、未だにコンテンツの質と言っているひとたちは、そう言って自分にアテンションを引っ張っておくために、語っているように僕には見える。
そんな他人のコンテンツのクオリティに難癖つけているひとに、人々はアテンションなんか引っ張られるのか?と思う方も多いかもしれないですが、
でも実際はその逆で、世の中には、自分のアウトプットに驚くほどのコンプレックスを抱いているひとたちは本当に多くて、そういうひとたちはむしろ「コンテンツの質が大事なんだ!」って言われれば言われるほど、都合よく、自分はまだ挑戦しなくていいという理由が生まれます。
つまりそこに共依存のような関係性を作り出すことができる。蜜月関係がちゃんと生まれているわけですよね。
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で、そうやって自らにアテンションを引っ張っている間に、自分の人間くさいところも散々見せつけて、より強固な関係性になっていく。
僕は、ここに騙されちゃダメだなあと思います。
クオリティというのは、もうAIが担保してくれるような時代になっていきます。大事なのは、東さんも語るように「ひと」のほう。
これは理想論ではなく、実際に既にそうなっていることを正しく見定める必要がある。
じゃあ、ここで言う「ひと」とは具体的には何のか。
東さんは、自らのゲンロンカフェでのトークイベントの体験を踏まえて、「神感」が宿ることだと語っていましたが、説明すると長くなるので、ここだけ拾い読みするだけでもこの本を実際に購入して読む価値はあると思います。
で、最後の結論部分だけを、再度引用してみると、以下のような結論を語られていました。
有名人でないとだめだという意味ではありません。無名の登壇者でも「神感」が宿ることはあります。むしろ大事なのは、「ああ、このひとはこういうひとだったのか」「この話題はこんなにおもしろかったのか」という意外性の発見です。そういう事例を数多く見ていると、ひとはどうも、「じつは……だった」という発見、つまり定義の訂正そのものに強い快楽を感じているのではないか、という仮説が出てきます。 つまり、訂正する力、それそのものが商品になりうるのではないか。
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このお話は、本当に共感します。
で、Wasei Salonにおいても、最初は見た目や肩書、何をメインで取り組んでいるひとなのかそうやってお互いに先入観のようなものがそれぞれの中に生まれてきます。
これは人間が初めましてで出会う以上、絶対に避けられない。それが訂正されつつ付けることのほうが本当に大事だなあと思います。
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唐突ですが、『カラマーゾフの兄弟』の中には、この「ひと」の感じが本当にうまい具合に描かれているなあと思います。
なぜこの長編小説に、僕らは自然と引き込まれてしまうのか。
それは、各登場人物の間に「じつは〜だった」という発見の連続だからだと思います。
実際、全5冊分、全5回、サロンの中で読書会を開催したのですが、それぞれのキャラクターに没入していく様子が手に取るように伝わってきました。
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この点、カラマーゾフの兄弟の冒頭、「著者より」という部分に出てくる有名な文章があります。
わたしの主人公、アレクセイ・カラマーゾフの一代記を書きはじめるにあたって、あるとまどいを覚えている。それはほかでもない。アレクセイ・カラマーゾフをわたしの主人公と呼んではいるものの、彼がけっして偉大な人物ではないことはわたし自身よくわかっているので、たとえば、こんなたぐいの質問がかならず出てくると予想できるからである。
あなたがこの小説の主人公に選んだアレクセイ・カラマーゾフは、いったいどこが優れているのか? どんな偉業をなしとげたというのか? どういった人たちにどんなことで知られているのか? 一読者である自分が、なぜそんな人物の生涯に起こった事実の探究に暇をつぶさなくてはならないのか? なかでも、最後の問いがもっとも致命的である。というのは、その問いに対して、わたしは次のように答えるしかすべがないからだ。「小説をお読みになれば、おのずからわかることですよ」と。
これは読み終えると、本当にそれがハッキリと理解できるんですよね。逆に言えば、読んでくださいとしか言えない理由も、今となっては本当によくわかる。
この正体はまさに、群像劇の中で巻き起こる様々な出来事の中で少しずつそのひとの人柄が訂正され続けるところにあるから。
何か明確に「コレが魅力だ」という話ではない。
訂正され続ける運動や、循環こそが本書の魅力なんです。そのためには、長い時間がかかる。それが全5巻の長編小説ということなんだろうなあと。
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で、ここまでの話は、仕事でもまったく一緒なのだと思います。
東さんのゲンロンカフェで行われるトークイベントも、5時間とか6時間とかこの中でドンドン引き込まれていく。
それは番組を観ながら必ず役回りを超えたズレ、その専門家の「人柄」が漏れ出す部分があるからです。
そして僕らはその都度、その人に対する印象を、訂正する契機を得ることができる。
だとすれば、そんな訂正するチャンスが何度も訪れるように「ダラダラとつながり続けること」のほうがむしろコンテンツの質なんかよりも、圧倒的に大事であるということがよくわかると思います。
だから、「このダラダラとつながり続ける」という環境をどうつくるかを考えた方がいい。
京都みたいな町だって、このダラダラと繋がり続ける中で生まれる「ひと」という関係性をうまく文化面に発展させて構築した町であるわけですよね。
繋がり続けたから、多少コスパが良かったとしても、他のチェーン店には流れずに、お互いに「ひと」を優先するわけですよね。
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関係性を立ち切らない、「じつは〜だったんだ」という発見をし続ける関係性。それが唯一無二の「ひと」の価値になる。
You Tubeのようなプラットフォームだって、このダラダラ繋がり続けるということに対して、とても強い力(習慣化)を結果的に構造として及ぼしたからここまで伸びたと言えそうです。
僕らは、どうやって長い時間をかけて繋がり続けるのか、それを今一度考えてみたほうがいい。
コミュニティという形は、質は関係なく長く共にいられるっていうことでもあるんだと思います。「ひと対ひと」としてお互いが直接出会い続けること。
これは言い換えると、お互いの役割だけで会わないこと、役割を超えた形や場面においても、共に居続ける時間を過ごすことが、何よりもとても大事だということだと思います。
本当に、もうコンテンツのクオリティじゃないのかもしれない。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。