これは日本人あるあるだと思うのですが、自らが苦労して取り組んでいることを、周囲から「それは遊びだ」と思われた瞬間に、なぜか怒ってしまいがちです。

たとえば、仕事先で訪れた旅先の話なんかを相手から聞かされて、「素晴らしいご旅行でしたね!」というと「いやいや、仕事で行ってきましたから」という謎の訂正が本当によく入る。

個人的には「仕事にも関わらず、それぐらい全身全霊で満喫してきて、まるで旅行のようですね!」という意味合いを込めて賞賛しているつもりなんだけれども、それが気に食わないというひとは、実はかなり多いんだなあと思います。

自分にとっての苦労や努力というものを、他者からも苦労や努力として認めてもらわないと、気が済まないということなんでしょうね。

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これは、夏目漱石の小説の中によく出てくる「高等遊民」なんかの話もまさにそうで。

なぜかこの国では苦学力行していることが良いことだと思われていて、そうじゃない高等遊民的な存在は「遊んでいるだけ」「怠けているだけ」というふうにみなされる。

そして、そのような言われ方をすると、途端に怒り出す人々もいる。

でも、自分が本気になって必死で取り組んでいることが、実はまわりからは「遊び」だと見えていることは、いいことだと思うんですよね。

つまり、そうやって高等遊民だって思われることは、実はめちゃくちゃ良いことではないかと思うのが僕の実感値です。

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たとえば、僕もこのサロンの運営を、「遊び」で行っているんだとと客観的に思われてる節は間違いなくあって、それを周囲の目や何気ない言葉尻から、ふと感じ取ることはよくあります。

僕自身がめちゃくちゃ楽しんでいるから、他人から見るとそう見えるんだろうなあとは思うけれども、実際には、毎日死ぬほど考えて常に試行錯誤している感覚はあるのですよね。

でも、それがまわりからは「遊び」に見えていることもよくわかっている。それは本当に大変光栄なことです。

たとえ、その「遊び」だと思われている半分は、見事にバカにされていて鼻で笑れていたとしても、です。

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で、一方で、一番最悪なことは、その真逆だと思っています。

具体的には、自分が本当に「遊び」感覚で(ここで言う遊び感覚はネガティブな意味)、適当に取り組んでいることを、あのひとはものすごく努力しているとみなされてしまうこと。

でも、これまた日本人の不思議なところだなあと思う点なのですが、こちらの不一致に関しては、むしろそれこそが理想的だと言わんばかりに思われているフシもあるんですよね。

自分自身は、左うちわで何一つ苦労なんてしているつもりはないんだけれども、まわりはその自分の姿や様子を見て、ものすごく一生懸命に努力をして、頑張っていると評価してくれるような状態。それが理想的なんだと。

いやいや、逆でしょう、と僕は強く思ってしまいます。

それだと単にサボっていることが、周囲にバレていないだけです。

自分はテキトーに取り組んでいるのに、周囲からは苦労しながら真剣に取り組んでいると思われてしまうこと、それが一番良くない状態であって、そうなってしまったら一刻も早くそこから脱出しなきゃいけないはずです。

なぜなら、ひとは本当に弱い生き物で、必ずそこに安住してしまいますから。そんな宝の持ち腐れの状態なんて、ないですよ。人生を無駄に浪費しているだけ。

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そして何より、そんな人生つまらなくないですかと、僕は思ってしまいます。

自らが本気を出さなくても、生活がまわってしまって、常にその評価軸も他人(世間)側にあるわけですから。

そうすれば、自然とどんな人間でも、世の中そんなものだと舐め腐ってしまうのは当然のことだと思います。次第に生きる態度も、横柄になってくることは間違いありません。

もちろん、そうやってふんぞり返ることこそが人生を謳歌することだ、贅沢することだと信じ込んでいるいるひとは、世の中に意外なほどに多いのはわかっています。

でも、そう思っているひとほど、本当によくよく考えて、胸に手を当てて考えて観て欲しいなと。そこに良いことなんて、本当に何ひとつないよなあと理解できるはずですから。

やっぱり常に、自らの行動の評価軸というのは、自分の中だけにあるべきで。

それに対して鼻で笑われようと、必死で努力していると感心されようと、どちらも一切自分の行動においては関係ないはずなのです。

自分が今回の人生でやるべきだと思うことを自分の持てる力で最大限に淡々とやるだけ。

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この点、たとえば現代においては、なぜか子育てに専念したり、専業主婦になることが肩身の狭いことになってしまっています。

その理由としては、あのひとは何も生産していないと「まわりから」見做されるからなんですよね。

その結果として、社会の目が気になってしまい、他人から価値があると見做される生産性の高い職業につこうとするわけです。でも、それはどう考えても僕は間違っているなあと思います。

自分は常に試行錯誤をしていて、そこに必死の努力が存在するならばそれだって立派な仕事であり職業だと、僕は思う。

でも、どこかでそんな自分の努力が周囲や世間から価値がないものだと思わされてしまっているのであれば、それは「誰が何のためにそう思わせているのか」を、ちゃんと考えた方がいい。

たとえば、生産労働人口が減ってしまっている今の日本の税収を増やしたいがために、国側がそういう風潮をつくりだしているというふうにも、考えることはできるはずなのです。

もし子育てや専業主婦は何も生産していない、サボっているだけなんだという発想であれば、論理的に考えると、重たい病気を患い、いま必死に療養し一日も早く完治しようとしていたり、リハビリしていたりすることこそ、マジで何の価値もないですからね。

でも、そうじゃないでしょう。これも、現代における「生産性の呪い」そのものだなあと僕は思います。

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客観的に、決まることなんて何ひとつないはずなのに、周囲の目ばかりを気にして、周囲が「えらいね」「頑張っているね」っていう評価の言葉を与えてくれることばかりに邁進してしまうのは、自ら選んだ道のようで、完全にまわりの「空気」に選ばされているだけ、なのです。

本当に大事なことは、自分が「いま本気出して全力で向き合っている」と心の底から思えること、それにちゃんと自分自身が真正面から向き合えているかどうかだと思います。

そうじゃないと、自分の人生に嘘をつくことになる。

常に、自らが感じるそんな「生きる」や「はたらく」におけるの張り合いを、何よりも一番大事にしていきたいなあと僕は思っています。

それこそが、自らの感性を最大限に鍛えることにもつながると思っているし、自然と、周囲に対する感謝の念みたいなものも、日に日に増大していくはずですから。

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もちろん、それが巡り巡って、具体的な結果や社会的な評価だってついてくる(※とはいえ、これは副産物でしかないし、それを目指しても意味はない)

このような人生との向き合い方が、ある種の人間の責務であり、自らの生命をまっとうすることだと僕は思っています。

今日のお話は、なかなかに変わった意見だと思われてしまったかもしれないですが、本当に強くそう感じています。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。