先週末、愛媛県今治市へ行き、イケウチオーガニックさんが開催されていたオープンハウス(工場見学ツアー)に参加し、さらにそこから岡山県高梁市にある吹屋ふるさと村へ行ってきました。

吹屋ふるさと村では、非常に素晴らしい古民家宿に一泊させてもらい、とっても濃密な2泊3日を過ごしてきました。

ここ数日は、リアルでの体験によって、気づきや発見が山のように溢れてきて、本当に幸せなパンク状態。

これから、ひとつずつ、ゆっくりと噛み締めながら、自分の中で整理していきたいと思っています。

で、いまこのようなパンク状態の中で漠然と思うのは、「一緒に未来を観る」という状態とは何か?というお話なのです。

今回の出張や旅とは直接は関係ない話ではありつつ、全体の体験を通して、漠然と感じ取ったこと、そしていま多くの方に関係してくるような話だとも思うので、今日はそんなお話を少しだけ。

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この点、一般的に、「一緒に未来を観る」という行動を想定したとき、僕らは、何かわかりやすい目標や目的地を定めて、そこへ到達するために、逆算して行動を導き出そうとしますよね。

会社や学校、地方自治体なんかも含めて、人々が複数集まり、組織を構築しようとするとき、必ずそのような振る舞いにでてしまいがち。

喩えるなら、どこかの目的地に到達するような道のりを計算し、そこから逆算して線路を引いて、その上に電車をのせて走らせるというような。

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でも、そのような「未来」像というのは、嘘だとバレてしまったのがここ数十年の日本、そして世界の姿だったのだと思います。

具体的には、資本主義が停滞し、成長という幻想のもと実際にはまったく成長していなかった。

最初に想定していた目的地に実際にやっとたどり着いた!と思ったとしても、一瞬でまた次の目的地が新たに生まれてくるだけ。

そういう直線的な進歩史観みたいなものは、人間がそのように未来を思い描ける能力があるだけであって、それは実際には幻想にすぎなかったのだ、と。

そして、気づけば地球の上を、ただひたすらにグルグルと回っているだけだったということにもなりかねない。

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で、このような価値観の嘘を漠然と感じ取って、僕は目指すべきはもっと「北極星」のようなものだと思って最近まで生きてきました。

北極星を目指してみても、僕らが地球という星の上に生きている以上、そこには一生たどり着かないかもしれないけれど、それを目的にしているうちは、少なくとも道に迷わずに済むというような。

そして、それを目指して歩み続けているうちに、道すがらに咲いているような、何気ない花を愛でるようなことが可能となったり、日常の些細な風景、その記憶や、過程の共有にこそ実は価値があるのだと。

みなさんもよく知るところで言えば、「葬送のフリーレン」なんかは、まさにそのような現代的な価値観の変化を、従来的なRPGのテンプレートの物語と絡めながら、本当にうまくあらわしてくれている。

ものすごく現代的かつ、本質的なマンガだと僕は思っています。

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でも、最近は、なんだかそのような発想もまた違うのかもしれないと思うようになりつつあるんですよね。

いや、方向性としては、きっとそれで正しいと思いつつ、もう少し解像度を上げられるはずで。

じゃあそれは一体何か?と言えば、同じように北極星を目指している状態ではあるのだけれども、その北極星はしっかりと背中に感じながら、カヌーを漕ぐように、後ろ向きに、前へと進んでくようなイメージなのです。

そして、その自分の背後から前の方へ過ぎ去っていく景色を仲間と共に共有しながら、ちょっと前の景色と、いまこの瞬間に後ろから自分たちの目の前に広がっていく情景を共有しながら、そこに意味を与えていく行為こそが、一番「未来を一緒に観る」ということに近い行為何じゃなかろうかと。

なぜなら、未来というものは幻想で、未だ到達していないのですから。

本当は背中側には真っ暗闇しか広がっていない。視野の届く範囲から、背後から入ってくる情報、そこに初めて現実の景色が広がっていく。

逆に前を見て進みながら、見えていると感じている未来というのは、内面から暗闇に投影されている幻想だったりするわけです。

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そして、その内面の投影は、実は過去に過ぎ去った様々な失敗や後悔から得られたものに対する恣意的な意味付けからの逆投射だと思うのです。

だからこそ、それが逆さまになったり左右反転したり、変なことが起こる。

つまり、今を正しく観ることができなくなる。未来が歪むし、そもそも共有なんてできたもんじゃない。

だとすれば、そうやって背後から、流れてくる現実の景色に、自分たちの意味付けをしていく行為こそが、未来を観るという行為、その原初の体験そのものなんじゃないか、とふと思ったのです。

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実際に僕らが現実においてやっていることに、より忠実なのはこのような比喩的な表現で言い表せられる行為だと、おもったんですよね。

それは、いつもこのブログの中で語っている「贈与の発見」の話にもこれはそのままつながっている。

贈与は受け取る側が発見してはじめて、未来に送られたものになるという、あの話です。

ミヒャエル・エンデの『モモ』のなかにも、後ろ向きに進んでいることによって、時を司る賢者のような存在、マイスターホラに会いに行くことができるようになるシーンがあるけれど、あの感覚にも、もしかしたらものすごく近いのかもしれない。

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一般的な価値観からすると、ファンタジーのような話をしていることは百も承知なのですが、でも僕は、個人的には今ものすごく現実的な話をしているつもりでいます。

何か目的地を定めて、その道のりを逆算すれば、未来を見れると思っているのは完全に世界を見誤っているのであって、僕にはこちらのほうがより現実の実態に近いと思う。

この点、未来志向の嘘を見抜いたひとは、カヌーに乗るように後ろ向きに前に進もうとします。

それが「いま、ここ」という話にもつながって、このような価値観を好む人々が増えているのは事実。

でも、一方で、それだけだと、方向性が定まらずに同じ場所でグルグルしちゃうということも起こり得ますよね。実際そのグルグルに悩まされているように見える人は最近本当に増えた。

だからこそ、そこに対して漠然とした違和感を感じるひとは、つい先日までの僕のように、北極星を自分の前面で捉えて、向かっていこうと歩み続けようとしているのでしょう。

でも、本当はその両方の組み合わせが大事というか、掛け合わせの問題なんじゃないかと思ったのです。

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正直、ここまで言葉にしてみても、まだまだ上手く言葉にできていないなあと感じてしまいます。

実際、この文章を、ちんぷんかんぷんのひとも多いと思います。自分でも、いまこの文章を書いていて、まったくうまく表現できているとは思えません。

でも一方で、きっと「何を今更あたりまえのことを言っているんだ」と思っているひとも必ずいるかと思います。

もしそういう方は、ぜひその感覚の実体験を言葉にして教えて欲しい。

そして、ひとりでも多く、この感覚が自分の感じていた「ソレ」そのものだったと思えるひとがいてくれたら、本当にこれ以上ない喜びです。

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僕が、未来を一緒に観るというそんな共有をすることがうまいなあと思うひとたち、そしてそんな企業や共同体は、この感覚をうまく実践していて、このようなあり方や状態で歩みを前に進めているような気がしています。

たとえばジブリとか、このような進み方が本当に上手なひとたちだと僕には思う。もちろん、イケウチオーガニックのオープンハウスで、ソレを感じ取ったわけですから、イケウチさんも今日のような話を直感的に実践されている企業なんだろうなあと。

まだまだ言葉足らずで、道半ばなので、引き続きちゃんと研究をしながら、この感覚を言葉にしていきたいなと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているひとたちにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。