先日、Wasei Salonの中で「馴染むってなんだろう?」という対話会が開催されました。

https://wasei.salon/events/088027bd736d

テーマだけ見れば、かなり穏やかな会。でも、実際に話し始めてみると、やっぱりこの言葉は厄介だなあと改めて強く思わされる対話会でした。

というのも、「馴染む」という言葉は、基本的には良いこととして流通しているから。

新しい職場に馴染む。新しい街に馴染む。コミュニティや家族、新しい服や靴が身体に馴染む。そんな言い方がよくされると思います。

そして、どれもだいたい褒め言葉です。少なくとも、そうなったほうがいい状態として語られることが多い。

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でも、僕はこの言葉に少し引っかかるものがありました。

本当に「馴染む」って、そんなに無条件に良いことなんだろうか。

それが、先日の対歓迎会をきっかけに、あらためて強くなってきた感情です。

https://wasei.salon/events/3b2e41ab2fe2

なぜなら、「馴染む」とは、単に居心地がよくなることではないからです。

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この点、僕は、「馴染む」という言葉の中に、「染みる」という漢字の感じを強く見ています。

何かが何かに、じわっと染み込んでいく。境目が少しずつ曖昧になっていく。半紙に墨が広がるみたいに、もともとくっきりしていた輪郭が、気づけばやわらいでいる。

そう考えると、馴染むというのは、安心や適応の言葉であると同時に、自分の輪郭が少しずつ薄くなっていくことの言葉でもあるはずです。

ここを、僕らはあまりに無邪気に見過ごしすぎている。だからこそ、馴染むという感覚を無条件で肯定することは、少し恐ろしかったりもするんだろうなと。

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たとえば、共同体に馴染むことを考えたとき、わかりやすい。これはふつう良いことのように語られます。

でもそれは裏返すと、その共同体の空気に合わせて、自分の声の大きさや、違和感の出し方や、怒り方や、沈黙の仕方まで、少しずつ調整していくことでもある。

もちろん、それ自体が全部悪いわけではありません。
人は誰かと一緒に生きる以上、まったく変わらずに関係を持ち続けることなんてできないから。

ただ、それでもなお思うのは、違和感は捨て去りたくない。

もう少し乱暴に言えば、「馴染んだほうがいい」という価値観は、ときどき「目立つな」「空気を読め」「その場に合うように自分を調整しろ」という圧力と、かなり近いところにあります。

学校でも、会社でも、地域でも、だいたいそうです。「馴染めている人」は評価されやすい。逆に「まだ馴染んでいない人」は、どこか問題を抱えた人のように扱われやすい。

でも、本当にそうなのだろうか、と。

むしろ僕は、馴染みきっていない人のほうが、その場の癖や歪みや、閉じた論理にいち早く気づけることがあると思っています。

完全にその空気の内側に入ってしまった人には見えないものが、少し外側にいる人には見える。

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これは、コミュニティ運営をしている側としても本当によく思うことです。

みんなが気持ちよく馴染んでいる状態は、たしかに一見すると理想的な状態と思われがちです。

空気もなめらかだし、衝突も少ない。言葉も通じやすい。だらかコミュニティオーナーはその状態に一刻でもはやく到達することを願う。

でも、そういう共同体は、やっぱりどこか不気味だったりもする。

なぜなら、馴染みすぎると、違和感を違和感として言えなくなるからです。

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もう少し正確に言えば、違和感を言う前に、自分のほうでその違和感を処理してしまう。

「いや、自分が気にしすぎかもしれない」
「ここで言うのも野暮かもしれない」
「この場に馴染むには、このくらいは飲み込んだほうがいいのかもしれない」

そうやって少しずつ、自分の輪郭を削っていく。そして、その削り方がうまい人ほど、「馴染める人」として、コミュニティ内で高く評価されてしまう。

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僕が言うのも変かもしれないけれど、僕はこの構造に、かなり強い違和感があります。

いまは、SNSでも、会社でも、コミュニティでも、「スムーズであること」が過剰に求められすぎている。

摩擦がないこと。早く適応できること。その場の文法をすぐに理解できること。会話のテンポを乱さないこと。そのためにこそ、みんな、AIを必死で使いこなそうともしている。

でも、最近ずっと言い続けている気がしますが、人間って、本来そんなにスムーズな存在ではないはずなんです。

本当に大事なことに触れたとき、人はむしろすぐには馴染めない。

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いい本を読んだときもそうです。すぐに「わかった」とはならないはずですもんね。

何かが引っかかるし、少しムカつく。うまく飲み込めないことも多いです。

で、数日後とか数年後に、なぜかまた思い出す。そして、あの時は馴染まなかったものが、時間をかけて自分の中にゆっくりと入ってくる。

人との関係なんかも、この本の感覚と少し似ていますよね。最初からすぐに馴染める相手より、最初はちょっとズレる、でもなぜか気になる、という相手のほうが、あとになって大事な存在になったりするわけです。

つまり、真に馴染むとは、最初からスムーズであることではない。

むしろ、すぐには処理できない違和感を、違和感のまま持ち続けられることの先に、ようやく生まれてくるものなんじゃないかと思うんです。

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で、このことを考えていると、どうしても寅さんのことを思い出してしまいます。

寅さんって、いつも物語のなかで「馴染めない人」として語られがちです。でも、僕はむしろ逆なんじゃないかと思っているんですよね。

寅さんは、馴染めないんじゃない。
馴染みそうになった瞬間に、むしろ旅に出てしまう人。

旅先の土地に対してもそうだし、マドンナに対してもそうだし、そして葛飾柴又のとらやに対しても、どこかで「あっ、このままいたら馴染んでしまうな」という気配が立ちのぼった瞬間に、ふっといなくなってしまう。

普通に考えれば、それは弱さです。ちゃんと落ち着けない、関係性を引き受けきれないことと同義ですから。

愛されそうになると、自分から逃げ出す。共同体の中に留まりきれない。

でも、あれはただの弱さとしてだけは、片付けられないとも思います。

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この点、寅さんの甥っ子・満男(吉岡秀隆)の有名なセリフがあります。

「あのおじさんはね、高い崖の上に咲いている花のように、手の届かない女の人には夢中になるんだけど、その人がおじさんを好きになると、慌てて逃げ出すんだよ。今までなんべんもそんなことがあって、その度に俺のお袋泣いてたよ、馬鹿ねお兄ちゃんは、なんて。……つまりさ、きれいな花が咲いているとするだろう、その花をそっとして置きたいなあという気持ちと、奪い取ってしまいたいという気持ちが、男にはあるんだよ。おじさんはどっちかと言うと、そっとして置きたい気持ちの方が強いんじゃないか」


改めて読むと、この台詞って、まさに今回の「馴染む」という話の核心に触れている気がしています。

つまり寅さんは、馴染むことを望んでいないわけではない。
本当は誰よりも、人恋しいし、あたたかい場所を求めている。

でも同時に、馴染みきってしまうこと、手に入ってしまうこと、合一してしまうことの怖さも知っている。

だから、馴染みそうになった瞬間に逃げる。それは関係を壊しているように見えて、別の角度から見れば、関係を「奪い取らない」ための能動的な撤退でもあるわけです。

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以前から何度もブログで触れてきたように、哲学者・苫野一徳さんは愛を「合一感情と分離的尊重の弁証法」と言っていました。

あの言葉を借りるなら、寅さんはまさに、このひとつになりたい気持ちと、ひとつにしすぎないための敬意のあいだで、ずっと揺れ動いていた人なんだと思います。

近づきたい。でも、近づきすぎたくはない。一つになりたい。でも、相手を自分のものにしてしまうことには耐えられない。
馴染みたい。でも、馴染みきってしまった先で、自分や相手の輪郭が消えてしまうのは怖い。

僕は、この寅さんの身振りを、単なる未熟さとしてバカにしたくはない。
むしろそこにこそ、人間の愛情のかなり深いところまで到達できている気がするんです。

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そして考えてみれば、共同体の中で起きることも、これにかなり似ていますよね。

人はどこかで馴染みたいと思っている。

でも同時に、馴染みすぎて自分を失ってしまうのも怖い。相手を失わせてしまうのも、苦しい。その狭間の葛藤こそ、優しさや敬意でもあるような気がします。

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だから本当は、「馴染める or 馴染めない」という二択で考えること自体が、少し乱暴なのかもしれないなあと。

大事なのは、近づいたり離れたりしながら、それでも完全には切らずに関わり続けること。馴染みそうになったら少し離れる。離れすぎたら、また戻ってくる。

その不器用な往復運動の中でしか守れない距離感が必ずある。その距離感の中でしか育たない愛情が、必ずある。

寅さんはまさに、そのことを「旅」と「渡世人」という身分を通して実直にやっていた人なんじゃないかと思います。

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この感じは、効率の論理とはかなり縁遠い観点でもあるはず。

そしてAI時代の今、人間の尊厳って、たぶんその「早く」によって傷つくことがあることが少しずつバレてきた。

馴染むには、本当は時間がかかる。いや、もっと言えば、本当に意味のある馴染みは、時間がかからないと生まれてこない。

その時間の中には、ちょっとした気まずさもあれば、小さな誤解もあるし、すれ違いもあるし、面倒くささもある。

でも、そういうノイズ込みでまるっと引き受けられた関係性だけが、あとになって「ああ、あのとき確かに馴染んだな」と思えるものになる。

ここは今、やっぱり大事な観点だなと思います。

AIは、答えを速くしてくれる。整理もしてくれる。こちらがまだうまく言えないことまで、それなりにうまく言葉にしてくれたりもする。

でも、だからといって、それが「馴染み」そのものをつくるかといえば、まだそうではない気がする。

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だからこそ、僕はWasei Salonでも、あまり「すぐに馴染めること」自体を目標にはしたくないと思っています。

それよりも、馴染めるかどうかわからない段階にいる人が、急かされずにいられること。

まだ自分の輪郭を守ったままでも、その場にいてもいいと素直に思えること。そして、必要なら違和感を違和感として表現できること。

そういう場のほうが、たぶん長い目で見れば、よほど健全です。

といことで、急いで馴染まなくてもいい場所を、これからも淡々とつくっていきたいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。