ここ最近、自分でも少し変な生活をしているなと思います。

なにか気になることがあると、まずはChatGPTに聞く。もう少し角度を変えたくなるとClaudeにも聞く。(特にリベラルネタ)そして、ついでにGeminiにも投げてみる。

そうすると当然、返ってくるのは大量の文章です。

しかも、どれもそれぞれの特徴が出ていて、かなりよくできている。整理されていて、わかりやすいし、痒いところにもちゃんと手が届く。だからどんどん読めてしまう。

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昨日ふと、「自分って一日どれくらいのAIが出力した文字を読んでいるんだろう」と思って、ChatGPTにざっくり聞いてみたんです。

すると、「7〜10万文字くらいは読んでいるのでは」と返ってきた。たしかに、それくらいいっていても全然おかしくない。

ChatGPTだけじゃなく、ClaudeやGeminiまで含めれば、新書二冊分くらいのAI生成テキストを読む日があっても不思議ではありません。

自分はいま、たぶん昔よりずっと文字を読んでいるわけです。

なのに、昔みたいに「ちゃんと読んだ」という感じはむしろ薄い。むしろ、「これだけ読んでいるのに、何も読んでいない感じすらある」。このねじれは、わりと本質的なことを含んでいるような気がしてきます。

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よく「最近の若者は本を読まなくなった」と言われます。

たしかに、いわゆる一冊の本を最初から最後まで読む時間は、前より取りにくくなっているのかもしれません。でも、だからといって人間が文字そのものから離れたかというと、そんなことはない。

むしろ逆で、浴びるほどAIの文字を読んでいる人も多いはずです。

つまり、変わったのはも、“読む”の中身なのだと思います。

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で、本を読む、というのは、もともとかなり不自由な行為だったはずなのです。

著者が書いた順番を、その順番で追うしかない。いま自分が知りたいことに一直線で向かってくれるわけでもない。

回り道も多いし、癖のある文体にも付き合わなければいけない。結論がなかなか出てこない本もある。

でも、その不自由さの中にこそ、「読書の大事な部分」があったのではないかと思うんです。

本を読むというのは、情報を回収することだけではない。ひとつのまとまった論理、文体、世界観の中に、ある程度長く身を置くことでもある。

もっと言えば、他者の時間感覚や思考の歩幅に、自分をしばらく預けることだったのではないか、と。

この人はこういう順番で考えるのか、とか、この比喩をこんなに引っ張るのか、とか、ここで急に話が逸れるのか、とか。

そういうもの全部ひっくるめて、本は「他者」だったわけです。こちらの理解速度に合わせてくれるとは限らないし、こちらの関心に奉仕してくれるとも限らない。

むしろ、こちらのペースを乱してくる。その乱され方の中で、自分の考えが少しずつ曲げられたり、ほぐされたり、広がったりする。

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一方で、AIの文章は違います。

こちらが聞いたことに対して、かなり正確に返してくれる。必要な部分だけを抜き出してくれる。こちらの理解力や関心に合わせて、上手な言い換えも、要約もしてくれる。

変な引っかかりが本当に少ない。だから疲れにくいし、どんどん量も読める。

これは本当にすごいことです。ここは変に否定は絶対にしたくない。

実際、自分もめちゃくちゃ助けられているし、AIがなかったら辿りつけなかった思考の整理や結論なんかもたくさんある。

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でも、その便利さを認めた上でなお、やはり本とは、違うものを読んでいる感覚があります。

AIの文章は、「読む」というより、かなり「摂取する」に近いのではないかと思うんです。しかもそこで起きているのは、単にAIがこちらに合わせて文章を出してくれるということだけではない。

もっと根本のところで、AIがこちらの代わりに先に読んでしまっている。こちらは、その読解の結果だけを、きれいに整った形で受け取ってしまっている。

つまりいま起きているのは、「人間が文字を読まなくなった」ということではなく、「人間が、自分のために奉仕するだけの文章を大量に読むようになった」ということなのかもしれないなあと。

けれど、そのことは同時に、「自分ではないもの」に深く触れる機会が減ることでもある。

本の面倒くささは、単なる欠点ではなかったのかもしれない。すぐに理解できないこと、すぐに結論が出ないこと。いまの自分には必要ないように見える脱線があること。

その全部が、こちらの欲望にすぐ従わない「他者」としてのありがたい存在だったのだろうなあって。

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ものすごい俗っぽいたとえですが、これって、ビールなんかに似ている気もします。

若いころの自分もそうでしたが、飲み慣れていない時期のビールって、正直ただ苦いだけ。だったら、もっと甘いものや、もっとわかりやすくおいしいものを選びたくなる。

その感覚自体は、すごく自然だと思います。

でも一方で、「苦いから」という理由だけで最初の一口を閉じ続けていたら、その苦さの先にあるものには、なかなか出会えない。

最初はよくわからなかった味が、ある時期からふっと身体に入ってくることがある。知識や思想や読書の魅力も、本当にそれによく似ている気がします。

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以前、自分はオーディオブックで村上春樹さんの『ノルウェイの森』を聴いたときにも、かなり近いことを感じました。

大学生のころは正直、『ノルウェイの森』の何がおもしろいのかよくわからなかった。でも、年齢を重ねてから耳から触れたときに、まったく別の作品みたいに入ってきた。

以前、本は逃げないし、こちらの側の時機が来るまで待っていてくれる。そんな話を以前書きました。


本や古典や思想の多くは、最初の一口目は、あまりおいしくない。むしろ冗長だし、まわりくどいし、何を言っているのかよくわからないことすらある。

でも、そのわかりにくさや退屈さ、少しの苦みに付き合う時間のなかでしか、育たない感受性も確かにある。

だからこそ、今の自分にはまだ早いもの、まだよさがわからないものを、すぐに切り捨てないことが、前よりもより一層大事になっている気もします。

その余裕や余白があるだけで、読書との関係はだいぶ変わるはずです。

これは若い世代だけの話でもないし、僕も偉そうに誰かを責められる話でもありません。むしろ、自分自身がまさにそうだから。

わかりやすく、速く、気が利いていて、自分に合ったもののほうへ流れていく、その誘惑は本当に強い。便利で助かるんだから、そうなるのは当然でもあると思っています。

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でも、だからこそ「未知の魅力にどうやって気づいてもらうか」は、本当に難しくなった。

自分が今回ほんとうに言いたい点も、まさにここにある。

でも、困ったことに、やっぱり読めない。少なくとも、昔みたいには読めない。

目の前にはAIがあって、こちらに最適化された文章がいくらでもAIから流れてくる。そのなかで、一冊の本に長く身を預けるには、前よりもずっと覚悟がいるわけです。

もうこれは完全なる堂々巡り。

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だから自分は、ここで改めてオーディオブックの可能性を強く感じるんですよね。

オーディオブックは紙の本や黙読の代替というよりも、AI時代の読書の入口として、かなり大きな意味をこれから改めて持ちうるのではないかと思うんです。

オーディオブックのおもしろさは、まさに「ながら聴き」にあると思います。

読むぞ、と机に向かって構えると、いまの時代はどうしても負けやすい。スマホから通知も来るし、AIも開けるし、もっと手軽で親切な文章がいくらでも生成できてしまう。

でも、耳から入ってくる言葉には、もう少し別の視点がある。

散歩しながらでも、家事をしながらでも、移動しながらでもいい。半分聞き流しているようでも、気づけば何かを受け取ってしまっている。そういう入り方が、間違いなくある。

いまの自分にはまだ早いと思っていた本に、耳からなら改めて触れられることがある。僕にとっての妻夫木聡さんが朗読してくれている『ノルウェイの森』がまさにそうだったように、です。

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そしてもうひとつ、オーディオブックと並んで大きいのが、コミュニティで開かれる読書会の価値です。

読書会には、ひとりで読むときとは少し違う力があるなあといつも強く実感します。

当日までに読み終えないと、というプレッシャーがまずあるし、誰かと一緒にその本について話す予定があるだけで、手を伸ばせなかった本にも少しだけ近づけることがある。

また、メンバー同士で同じ本を読んでも、こんなふうに読むのか、そんなところに引っかかるのか!という驚きもある。

自分なら絶対に拾わなかった一文を、別の人が大事そうに紹介してくれることがある。

しかも、それがその人の生きてきた時間や、信頼している関係性のなかで差し出されるから、自分にもやたらとグッと来てしまう、そんなシーンを何度も体感しました。

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つまり読書会は、本の内容を効率よく理解する場というより、他者の読み方に触れる場なのだと思います。

ひとりでは最後まで読み切ることができなかった本に、関係性の力で近づいていける。

あの人がそんなふうに読むなら、自分も読んでみたい、という気持ちで開かれていく。

その感じは、AIにはなかなか代替できないと思います。まさに「飛ぶ」ことができる。

いま本に残る価値があるとしたら、情報量の多さではないと思います。

むしろ、こちらのペースをちゃんと乱してくれること。理解をすぐ満たしてくれないこと。回り道を強いてくれること。

そうやった結果として、自分の関心だけでは辿りつけなかった場所に連れていくこと。その不便さや異物感の側に、これからの読書の価値はより濃く残っていくのではないか。

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読書会のおもしろさも、まさにそこにあるのだと思います。正解を確認し合うのではなく、他人の読みによって、自分の読みが少し崩されること。

本そのものだけでなく、その本を読む人との信頼が構築されているからこそ、まだ自分に開かれていない本にも手を伸ばせるようになることの豊かさです。

AI時代にコミュニティが持つ価値は、こういうところにも宿ってくるはずです。

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いまの時代、文字は消えていない。むしろ無限増殖的に増えている。

ただ、その多くが「こちらのために整えられた文字」になってきている。だからこそ、めちゃくちゃ読んでいるのに、何も読んでいないような感じも生まれてしまう。

だとしたら、自分のペースでは読めないもの、自分に奉仕してくれないもの。そういう文章の中に、あえて身を置くこと。

それを支えてくれるのが、オーディオブックであり、読書会であり、コミュニティの中でお互いに信頼できているメンバー同士の関係性なんじゃないのかなと。

これまでもそうでしたが、AI時代はより一層、そんな場を丁寧につくりあげていきたいなあと僕は思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。