先日、オシロの牟田口さんの note 「飯田橋ギンレイホールというかつてあった名画座と、神保町シネマリスという希望」を読みました。


さらにこのことについて音声で語られているオシロさんのPodcastも合わせて聴いて、かなり強く「わかるなあ」と思いました。


この記事を読むと、映画館、特にミニシアターってやっぱり単なる上映施設ではなかったんだよなと思わされます。

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牟田口さんの文章の中でとくに印象的だったのは、ギンレイホールが単なる映画館ではなく、居場所として語られていたことでした。

さらに、神保町シネマリスについても、映画館ができる前から、クラファンの返信ややりとりを通じて、すでにコミュニティが始まっていたと書かれていた。

ここがとっても重要な観点だなと感じます。

映画館というのは、映画が上映される瞬間だけ存在しているわけではない。

もっと前から始まっていて、もっと後まで続いている。一本の作品を観るという出来事の周辺にある時間や空気まで含めて、その場所の価値となっている。

今日はそんなお話に感化されたので、自分もコミュニティの観点からも語ってみたいと思います。

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この点、配信サービスが当たり前になってから、映画コンテンツ自体はものすごく便利なものになりました。

好きなときに、好きな作品を、すぐに観られる。上映時間に合わせて動かなくてもいいし、電車に乗って映画館まで行かなくてもいい。その恩恵は本当にかなり大きいと思います。

でも、その便利さに慣れれば慣れるほど、逆に少しずつ失われていったものもある気もしますよね。

たとえば、自分では絶対に選ばなかった一本に、劇場のプログラムや目利きによって連れていかれる感じを味わえなくなった。

あるいは、映画が終わったあと、誰とも話していないのに、同じ空間で同じ作品を観た他人の存在が、うっすらと身体にも残る感じも存在しなくなった。

こういうものは、オンデマンドの配信ではかなり再現しにくい。情報として代替することはできるのかもしれないけれど、身体的にはかなり別物だと思います。

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ここでよく言われるのは、「じゃあ、いわゆるウォッチパーティーでいいんじゃね?」という話なんかもあると思います。

ネット上で同時に同じ作品を再生して、チャットや通話をつないで、一緒に観る。たしかにそれは一つの工夫ではあるし、ある種の楽しさもある。

でも、どうもそれだけだとやっぱりなんだか物足りない気もします。

家にいたまま、いつもの端末で、いつでも抜けられる状態のまま接続していると、その時間がどうしても生活の強い節目とはなりにくい。

参加すること自体が、まだ他の用事と同列に並んでしまう。

少し面倒になれば閉じられるし、集中が切れれば別タブも開けてしまう。そうなると結局、「それなら自分の好きなタイミングで非同期に観ればよくない…?」という方向に流れやすいなと思うのです。

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でも、映画館の場合は違う。

わざわざ時間を合わせて、わざわざその場所に出向く。そんな数々の小さな不自由さがあるからこそ、その体験は生活の中で逆説的にちゃんと輪郭を持ってくる。

実際に足を運ぶことによって、「今からこれを観る」という態勢ができてくるわけです。

以前、僕らの世代が本当に飢えているのは、情報やコンテンツそのものではなく、「擬似同期」なのではないか、ということを書いたことがありました。


人は何かすごい作品を求めているというより、その作品を介して、誰かと同じ時間を「くぐる」感覚に飢えているのではないか、と思うのです。

配信も、ウォッチパーティーも、同期の形式まではつくれる。けれど、わざわざ身体を運び、同じ空間に身を置き、途中で止められない時間を他者とくぐる、あの独特の擬似同期までは、なかなか再現できない。

要するに、人は、同じ時間を一緒に「くぐりたい」のだと思うのです。ここが今日一番強調したいポイントでもあります。

なんなら、現代でも根深く残っている初詣の習慣とかも、きっと鳥居を一緒にくぐりたい。誰かと一緒にあちら側にいって、こちら側に帰ってきたいみたいな願望があるんだろうなあって。

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で、オンラインの読書会は、それがわりとうまく成立する。もちろん、対面ならではの良さはあるけれど、それでもオンラインでも、かなり豊かな時間になる。

たぶんあれは、読書会が基本的には言葉を介した営みだからです。読むのは各自でできるし、その後に感想や違和感や問いを持ち寄ることが中心になる。

だから、同期する場所がオンラインでも成立しやすい。

でも映画は、ちょっと違う。

映画はまず、同じ空間で同じ時間の経過をくぐること自体の比重が大きい。映画館の暗さ、音量、沈黙、座席に座っている身体、途中で勝手に止められないこと、他人の気配ごとその流れていく物語の時間を過ごすこと。

同じ作品を、同じ時間に、同じ空間で、同じようには理解しなくても、それでも一緒にくぐる。

たぶん映画館の価値って、このあたりにあるはずなんですよね。

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そう考えると、ミニシアターは、書店や読書会やコミュニティスペースに近い存在なんだと思うんです。

本を売っているだけではなく、読む世界そのものを編集している書店があるように。

それっていうのは、色がつきやすいから、個性派書店なんかと同じで揶揄もされやすい。

でもそれは、良い面の裏返しでちゃんとエッジが立っているから。

劇場ごとの思想がある。選書ならぬ「選映」があるわけです。

プログラムそのものに、その場所が何を大切にしているなにかが宿りやすい。

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そして、ここにAI時代のかなり大きな論点が重なってくると思っています。

これから先、AIによって誰もが映画並みのクオリティの動画や短編作品を作れるようになっていくはずです。

もちろん、いきなり全員が名監督になるわけではない。でも少なくとも、「映像作品を作る」という行為のハードルは、今よりもずっと下がっていく。

いままでなら、制作費や機材や技術の問題で形にならなかったものが、個人単位でどんどん可視化されていくはずです。

そうなると、映像作品そのものの希少性は、どうしても下がっていきます。すごい物語やすごい映像がある、というだけでは価値になりにくくなる。

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ここで不足するのは、ますます作品そのものではなくなると思うんですよね。

すでに僕らは、コンテンツそのものにはかなり満たされてしまっている。足りないのは、作品を介して実存的な不安をやわらげたり、誰かと同じ時間をくぐったり、自分の感情をどこかに付託したりできる「場」のほうです。

コンテンツは目的ではなく、本来は媒介(メディア)だったはずです。

人と人がつながるための媒介。自分より少し大きな物語や、少し広い共同体に、自分の感情を預ける、付託するための媒介。

そう考えると、映画の価値が作品単体から場へ移るというのは、何かが劣化する話ではなくて、本来映画が持っていた媒介性が、もう一度前景化してくるという話なのかもしれません。

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つまり、価値の重心が、コンテンツから場やコミュニティへ、作品から体験の編集へ、少しずつ移っていく。

作品が増えれば増えるほど、受け取り方はバラバラになるし、アルゴリズムが一人ひとりに最適な作品を運んでくれるようになればなるほど、逆に「何をどう味わうか」を、人と共有する機会は失われやすくなる。

その意味で、ミニシアターは、単に作品を上映しているだけではなく、作品の受け取り方そのものを育てていく場所なのかもしれない。

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この「信頼して身を預けられる」という感じは、AI時代にはむしろものすごく貴重になっていくと思います。

供給が少ない時代には、とにかく選択肢を増やすことに価値があった。でも、供給が多すぎる時代には、選択肢を増やすこと以上に、よりよい制限をつくることのほうに価値がある。

何でもあることよりも、何をあえて置かないか。どんな空気を大切にするのか。どんな態度で作品と向き合うことを推奨するのか。そういうことのほうが、その場所の価値を決めていく。

このあたりも、Wasei Salonをやっていても、本当によく思うことです。同じ本でも、ひとりで読むのと、読書会で読むのとでは、まるで別ものの本となる。

人はコンテンツを消費して育つだけではなく、それを他者と一緒に深く味わう(くぐる)関係性の中で、感受性そのものが場と共に育てられていくんだと思います。

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だから、これからの映画館は、商業映画を上映するだけの箱ではなく、もっとローカルな文化の編集拠点になっていく可能性が高い。

会員がつくった作品をコミュニティ単位で上映する場になるかもしれないし、上映後の対話会まで含めて、一つのプログラムになるかもしれない。

そう考えると、ミニシアターは、シネコンやオンデマンド配信の下位互換なんかではまったくなくて、むしろ「ただ観るだけでは終わらない場所」として、これから再定義されていく可能性のほうが大きいんだろうなと思います。

AIによって、誰もが映像を作れるようになる時代だからこそ逆に、どこで、誰と、どんな気配の中でソレをくぐるのかが、前よりももっともっと重要になる。

ミニシアターは、そういう意味でもかなり先進的な場所となっていきそうだなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。