Substackに惹かれている理由について、ここ最近ずっと考えています。
まず、Substackの魅力は、単に「長文を書ける場所」だからではないだろうなあと。あの場は、自分の中にある違和感を、ちゃんと表明できる場所になりうるのではないか、ということなんです。
いわゆる世間の「空気」や大きな声、アルゴリズムに流されるのではなく、自分の身体に宿っている小さな引っかかりのようなものを、丁寧に言葉にしていくことができる場所。
それを文脈やコンテキストの中で、ゆっくり考え直すことができる場所、届けることができる場所として、Substackは伸びていく可能性があるなと考えています。
そう考えると、いま失われつつあるのは、単に長文を書く習慣ではなく、文脈の中で共に考える習慣なのだと思いました。
だからこそ、これから本当に価値を持つのは、ただの意見表明だけではなく、健全な批評や批判の復興にもつながるのだと思う。
「自分が考えることを、丁寧に文章で発信する」とは、つまり、自分の身体に宿った違和感を、急いで正解や結論に回収せず、その違和感がどこから来ているのかを、ひとつずつ丁寧に言葉にしていきながら、自らに実践していく行為でもあるわけですから。
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で、そんなことをモヤモヤと考えていたときに、昨日、Waseiの初期の社員メンバーと食事に行き「やっぱり元祖の人たちは、未だに生き残っているし、しぶとく強いよね」という話をしました。
ここでいう「元祖」とは、SNSが登場しはじめた2010年代前半に、その新しい動きをいち早くキャッチアップし、自分の働き方や生き方へと接続していった人たちのことです。
当時は、まだまだ正解なんてなかった時代。
SNSで発信することが仕事になるのか、個人がメディアになり、会社に属さず、自分の名前で働くとはどういうことなのか、誰も、そんなことに対してはっきりとした答えを持っていなかった。
だからこそ、その時代から既に頭角を現した人たちは、自分で考えて実践し、トライ・アンド・エラーするしかなかったのだと思います。
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結果的に、2020年代後半に入った今でも残っているのは、その時代に自分で道を切り拓いた人たちのように見えます。
もちろん、単に早く始めたから強かった、という話ではありません。ここでいわゆるな「先行者利益」の話を持ち出して、FOMOを煽りたいとかそういう話ではまったくない。
そうじゃなくて、本当に強かったのは、彼らはまだ誰も使い方を知らなかった場所で、自分なりの使い方を発明したからだと思います。
新しい道具を見つけたときに、「これは自分にとって何なのか」とじっくりと考えて、新しい場所が立ち上がったときに、「自分はここで何をしたいのか」と、その距離感からゼロベースで自ら考えたわけです。
誰かの正解を借りるのではなく、自分の生活や仕事や違和感と接続させながら、その場所を自分なりに使っていった。
その結果として、その人たちの働き方そのものが、新しい時代の風景になっていったのだと思います。
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一方で、2010年代後半に、そんなファーストペンギンやアーリーアダプターのひとたちの後ろ姿を見て、「ああ、なるほど、こうすればうまくいくのか」と参入してきた人たちは、すぐに成功できたけれど、同時に思った以上に、早く消えていったようにも感じます。
自分のまわりを見渡してみると、すでに成功していた人たちの型をなぞるように入ってきた人ほど、長くは続かなかった印象があります。
それは、才能がなかったからではない。むしろ、器用だった人たちもたくさんいたし、時代の空気を読むのがうまく、見よう見まねで形にするのも早かった。
でも、誰かが切り拓いた道を、真後ろからついていくことに慣れてしまうと、環境が変わったときに、自分で探って立て直していく力が育ちにくいわけですよね。
マラソンや競輪で、前を走る人の後ろについて風を避けるように、誰かの後ろを走るのはたしかに楽なんです。効率もいいし、失敗も少ない。いわば、コバンザメ戦法のようなものです。
でも、時代の変わり目にそれをやってしまうと、たぶん生き残れない。なぜなら、新しい場所では、まだ誰も正解を知らないからです。
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ただし、ここでの問題は「生き残れない」ということだけではないと思っています。
本当に怖いのは、たとえコバンザメ戦法でうまくいったとしても、それをすると、自分のやりたかったことから、少しずつズレて乖離していってしまうこと。
誰かが切り拓いてくれた道が、今回も自分の行きたい方向に伸びているとは限らない。
逆に言えば、前回は、たまたま重なっていただけ。
2010年代前半、SNSという新しい場所に、自分の働き方や生き方を重ねることができた。誰かの切り拓いた道の先に、自分も行きたい場所があった。だから、その背中を追いかけることに意味があったわけですよね。
でも、次の時代もやりたいことが同じだとは限らないわけです。
その人はその人で、新しい場所に向かっていき、その人なりの「原初の欲望」があり、その人なりの切実さのもと、新しい道をまたゼロから切り拓いている。
それは徹頭徹尾、その人の道であって、自分の道ではない。
ここを勘違いして先行者に惰性でついていってしまうと、気づかないうちに、自分が本当にやりたかったことから、少しずつズレていくのだと思います。
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それは最初のうちは小さなズレかもしれないけれど、少しずつ自分の身体の声よりも、他人の成功の軌道のほうを優先するようになる。
その積み重ねの先にあるのは、自分の「原初の欲望」からひどく遠く離れてしまった場所です。
だからこそ、新しい時代の分岐点では、自分は本当は何に惹かれているのか。何に違和感を覚えているのか。どんな関係性を新たに構築したいのか。
声が大きい人間の正解を借りる前に、まずそこにちゃんと立ち戻る必要がある。
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ただ、ここまで書くと、こんな声も聞こえてきそうです。
「でも、そんなふうに、それぞれがそれぞぞれの道を切り拓いていったら、結局は誰とも交わることができずに、孤立してしまうのではないか、一匹狼になるだけではないか」と。
確かにそう思う気持ちはよく分かる。でも、僕はそれは完全な勘違いだと思っています。
自分の道を歩くことと、孤立することはまったく違う。ここはハッキリと主張しておきたい部分です。
むしろ、それぞれに自分の道を歩いている人同士だからこそ、深くつながれることがある。
やっていることはバラバラでいいんです。選んだ場所も、表現の仕方も、仕事の形も、それぞれ違っていてまったく問題ない。
ただ、その人がどんな視座で時代を見ているのか。何に違和感を覚え、何を大切にしながら、どうやって自分の道を新たに切り拓こうとしているのか。
そこに、お互いに共鳴することはできるわけですよね。
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そのときには、直接的に真似するわけではありません。その人のノウハウを、そのまま自分に当てはめることができるわけでもない。
一方で「なるほど、あなたはそうやって切り拓いていったんですね!」という姿勢や態度には、ものすごく学ぶところが大きい。
つまり、そんな他者の過程に触れることは、自分にとって大きな糧になります。もちろん、そこには自然と相手への敬意も宿る。
「もっと知りたい、もっと教えて!」と、新たな交流なんかも生まれ、続いていく。
言い換えると、相手の歩み方に敬意を払うからこそ、自分もまた、自分で考え、自分で試すことになる。
その結果として、自然とそこに、オリジナリティが宿るわけです。
でも、それは決して一人ではないわけです。孤独に閉じこもっているわけでもない。
お互いに、自分の道をちゃんと歩いているし、そこで立ちあらわれてくる視座や姿勢には深く共鳴している。
そういう関係性は、とても豊かだと思います。
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つまり、同じ道を歩かなくても、同じ視座でつながることはできる。
いや、むしろ同じ道を歩かないからこそ、そこに本当の意味での他者への敬意が生まれてくるのかもしれない。
本当はそのほうが、ずっと深く人生に”役に立つ”のだと思います。
なぜなら、そこにあるのはノウハウではなく、態度だからです。模倣すべきノウハウではなく、自分の場所で自分なりに考え直すための勇気にもつながるからです。
でも、いまの時代には、他人が切り拓いた道に乗っていくためのスクールやコミュニティが、あまりにも多いように感じます。
もちろん、それ自体をすべて否定したいわけではありません。学ぶの語源は「真似ぶ」であるとは、ほんとうにその通り。
でも、そこで気をつけなければいけないのは、いつのまにか他人の欲望を欲望させられて、都合よく彼らのビジネスの喰い物にされてしまうということ。
でも、それは果たして、本当に自分の「原初の欲望」なのか。
そこを自分の直感や身体性で確かめることが、何よりも大事なのだと思います。
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僕がつくりたいと思っているコミュニティも、まさにお互いに「その自分なりの道を切り拓いていく感覚こそを、大事にしていこうぜ!」って呼びかけ合える場所。
誰かの成功法則に、みんなで乗っていく場所ではないし、同じ答えを共有する場所でもない。
自分の納得感をいちばんに大事にできる人たちがそれぞれに集い、それぞれがバラバラの道を進みながらも、互いの視座に対して励まされる場所。
そういう関係性こそが、本当の意味での理想のコミュニティなのだと思います。
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それは、外から見れば、一見するとまとまりがないように見えるかもしれない。
みんなが同じ方向に走っているわけではないですし、同じ成果を目指しているわけでもないですからね。
でも、それぞれが自分の「原初の欲望」に立ち返りながら、自分の場所で何かを一生懸命に試している。
その姿勢に対して、互いが敬意と配慮と親切心を持っている。いつだって助け合う準備もできている、そんな場所。
僕は、そういうつながりのほうが、これからの時代においては、ずっと強固で、信頼に値する場所になると思います。
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僕は、そんな新しい公共圏のようなものをつくっていきたい。
僕がSubstackに期待しているのは、たぶんそういう関係性の構築なのだと思います。
そして、Wasei Salonのようなクローズドのオンラインコミュニティ内では、表では語りにくい話題についても、更に深く対話をしたり、読書会をしたりしながら知見を深めつつ、共に居続けることで、お互いの記憶も共有し、互いの歩みをリスペクトし合える関係性へと昇華させていたきい。
同じ道を歩かなくても、同じ視座でつながることはできる。むしろ、それぞれが自分の道を歩いているからこそ、そこに本当の敬意が生まれる。
そして、その敬意という信頼感の中でこそ、僕たちはもう一度、自分なりの違和感や直感を真剣に信じてみることができるのだと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/05/12 14:53
同じ道を歩かなくても、同じ視座でつながることはできる。
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