最近、Substack上で、アカウント名に「@AI〇〇」と肩書きのようにAIという単語を入れている人を見かけると、その時点で少しフォローする気が失せてしまうことが多いです。

もちろん、本人としてはきっと親切心なのだと思います。もしくは、従来的なマーケティングの正攻法として捉えているんだろうなと思います。

ただ、プラットフォームが変わると、その正攻法や「正しさ」も少しずつ変わってくる気がするんですよね。

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それはそのひとのアカウントで語られている内容以前に、少しだけ服装に違和感を感じる場合に近いのかもしれない。

服装が、明らかにその場で求めている文脈やコンテキストからはズレているというような場面ってよく見かけますよね。

「@AI〇〇」と名乗っている人を見かけたときの違和感は、たぶんこれにかなり近いんだと思います。

本人は丁寧に名札をつけているつもりなのだけれど、その名札が逆に興ざめさせるとか、声の大きさが、その場の空間や雰囲気に合っていなかったり、名刺交換会のノリで縁側にそのまま入ってきてしまっているような。

僕が本当に知りたいのは、AIについて詳しい人の情報そのものではなく、AIが暮らしや仕事や人間関係の中に入り込んできたあとで、その人が一体何を感じ、何に戸惑い、何を手放せずにいるのか、そんな生身の言葉、手仕事の言葉のほうだったりします。


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また、Substackは、少なくともいまのタイミングでは、Xの延長として立ち上がっているわけではない気がするんですよね。

むしろ、完全にそのアンチテーゼとして、勃興してきている。

AIによって更に加速している、X的な速さや強さ、煽り現象に、少しずつ疲れてしまった人たちが、もう一度テキストで関係をつくり直そうとしている場所として見える。

だとすると、Xに挑むための服装をそのまま着ていくと、やっぱり少しだけ浮いてしまうと思います。

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そして、このSubstackへのアップデートの感じは、Podcast文脈を一巡して経由したことも、かなり大きいように思っています。

この5年ほどで、Podcastはかなり一般化しました。

X的な短文や炎上や即時反応から少し離れて、声でゆっくり話す場所が育っていった。

本音で話せる感じ、リスナーと直接つながる感覚や声の親密さの意味合い、そういうものが、ある程度ちゃんと定着したと思います。

ただ、そのPodcastにも、少しずつ界隈化や形式化が起きてきているわけですよね。

しかも、定番化したからこそ「Podcastっぽい親密さ、Podcastっぽい語り口、Podcastっぽい関係性」がテンプレートというか、ひとつのあるあるノリにもなってきた。

ここで、正直に言ってしまうと、僕自身、最近のPodcast文化のそのあるある感に少しだけマンネリのようなものを感じはじめています。

「あー、はいはい、またその感じね」と、ワクワク感が少しずつ痩せ細ってきている感じがします。

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そこにきて、Substackの登場なんだろうなあと。

Podcast以上の広がりはありつつ、Xほど野蛮でもない。

そう考えると、Substackの立ち位置がだんだん見えてくると思います。

Xは、誤配は起きるけれど、関係性が壊れやすい。なにより文脈やコンテキストがプラットフォームの都合によって、すぐに分断されてしまう。

一方で、Podcastは、文脈は親密は丁寧に育つけれど、誤配が起きにくい。

Substackはそのあいだで、関係を壊しすぎないまま、もう一度テキストで誤配を起こそうとしている場所なのではないか、そんな気がするんですよね。

Podcastが育ててきた親密さや、リスナーと直接つながる感覚を引き継ぎながら、もう一度テキストの側に戻ってくる。

そんな「Podcastっぽいテキスト」の場所がSubstackなんだと言えば、誰もが「あー、なるほどね」となるようになったのが、2026年の現在だと思っています。

しかも、ただテキストやブログに戻るのではなく、ニュースレターやリコメンドや紹介機能といった独特な仕組みによって、その親密さと誤配が、ちょうどいい塩梅で同時に起きる場所として舞い戻ってきている。

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でも、かといって、そんなSubstack上で相互フォロー企画のような形で、有象無象の誰かと広くつながりたいわけでもないんですよね。

このあたりは本当にめんどうくさくてごめんなさい、って思っています。

出会いたい人は、たぶんもっともっと別の文脈でのつながり。

逆に言えば、ここでまたフォロワー数を過度に追い求めたりしてしまったら、元の木阿弥だなと。

これまでのXや従来的なSNSの価値基準において、フォロワーというKPI的に追われてしまって、声の大きいインフルエンサーに教育されてしまうのは本当にもったいない。それは、彼らにとって都合が良いだけですからね。

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極端な話、本当にSubstackが日本でも普及してくれば、たった1000人程度の購読者がいれば、もうそれで十分だと思います。

それ以上に増えることはむしろ、自分が正直に本音を書くことの妨げにさえなってしまう。

本当に書きたかった「原初の欲望」を忘れちゃいけないなと思いますし、そのためには1000人程度で十分なはずです。やりたいことはそれで十分実現するひとが、世の大半の人々。9割はそれで事足りる。

もし、それ以上の人々との広がりを求める場合は、未だにXやYouTubeなどに求めたほうがいい。

それよりも、本当に大事なことは、自分の本音を書きやすい、本当につながりたい人たちと繋がるための自分のおもてなし空間を、丁寧に手づくりして、また新たにつくりだすことのほうだと思います。

それを改めてゼロから構築し、視座を共有できることがSubstackの真の強みだと思いますし、このような視座をしっかりと共有できる人たちと、深くつながっていきたいと僕なんかは思います。

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だからSubstackで問われているのは、たぶん文章力やコンテンツ内容そのものではない気がします。

どんな距離感で、もう一度本当につながりたい読み手のみなさんの前に立とうとしてみるのか、そこなんだと思います。

近すぎると内輪になるし、遠すぎるとただのオープンなメディアになる。

そのあいだにある、少しだけ新しくもあり、むずかしくもある距離感。読者と直接つながっているけれど、閉じたオンラインコミュニティにはならず、半オープンの縁側のようなテキスト空間。

そういう距離感を、Substackはもう一度テキストで試そうとすることができる場所だと本気で思っています。

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さて、ここまで偉そうに距離感の話を書いてきましたが、正直に書いてしまうと、僕が今回のSubstackの兆しの中で、いちばん目指していることは、もう少し違うところにあったりします。

具体的には、知名度を上げることでも、お金を稼ぐことでも、承認欲求を満たすことでもないんですよね。

それよりも、何年か前のNFTブームのときのように、何千人、何万人の中から、たった数人だけでいいから、本当の意味でWasei Salonの仲間になってくれる人と出会えること。

これができたら、個人的には100点満点だと思っています。

実際、あのとき、外から見れば有象無象の欲望が渦巻くパーティー会場のような様子だった。もちろん、その渦の中に、自分自身もいたのだと思います。

でもその混沌の中で、なぜか偶然に出会えた視座をともにする人たちがいました。そしてその人たちの中には、いまもWasei Salonにとって、余人をもって代えがたい存在になってくれている人たちが、何人もいる。

普通に暮らしていたら、たぶんすれ違うことすらなかったと思います。

でも、あのときの欲望渦巻くパーティーの中で、たまたま僕のVoicyを見つけてくれて、丁寧に聴いてくれた。そして、少しずつ言葉を交わすうちに、徐々にWasei Salonが目指す世界観に共感してくれた。

僕がいまのSubstackに期待している出会いも、たぶんそれに近いのだと思います。

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そのまだ出会わぬ誰かは、最初からWasei Salonに興味があるわけではないかもしれない。

「Substackを試してみよう」となんとなく惹かれて集まってきただけかもしれない。でも、その人の中に、ほんの少しだけ別の欲望が眠っているかもしれない。

そういう人に対して、「でも本当は、こういう思想や文化にも興味があるんじゃないですか?」と、北風と太陽の太陽みたいなノリで、そっと誘ってみたい。

ある種、これも僕なりの菩薩行のひとつなのかもしれません。

今回は、ここを通じて一体どんな人と出会えるのか、いまからとっても楽しみにしています。

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新しい場所が生まれたとき、僕たちはわりとすぐに「そこでどうやって勝つか」ばかりを考えてしまう。

しかもその勝利の条件は、従来的な価値基準のまま一切アップデートされず、そのための攻略やハック術に向かってしまう。

でも本当に僕らが求めていることは、そうじゃない。もっと別のところにあるはずです。長い人生を通して、本当の幸福に至る道を探しているわけですから。

だったら「何のためにやるのか」から成功の概念自体をガラッと変えて挑まないと、プラットフォームを移行した意味がなくなってしまう。そしてその時にこそ原初の欲望に立ち返るべきはずであって。

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そして新たな距離感とは、結局のところ、目の前の他者をどう扱うかということでもあると思います。

読者を「獲得する対象」として見るのか。「教育する対象」として見るのか。「ファン化する対象」として見るのか。

それとも、同じ場所に居合わせた他者として、敬意を持って生涯つながりたいと願う、同志を求めているのか。

その違いは、たぶん文章にハッキリと出るし、名前欄のような何気ない表記やふるまいに溢れ出るんだろうなあと。

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もちろんSubstackにも、もうしばらくすれば、すぐにSubstackっぽい型は生まれてくると思います。

「静かに誠実に書いています」という演出も、たぶんすぐにテンプレ化していくはず。だから、いま僕が書いていることも、半年後には少しズレて見えるはず。

それでも、新しい場所が生まれた瞬間にしかない空気というのは、ゼロベースで向き合う必要があると思いますし、その距離感自体を自分自身で新たに創意工夫しながら作り出していくことに意味があると思います。

その試行錯誤を繰り返した先に、自分らしい「情報の交差点」が生まれてくるはずですし、そこに文化や思想が宿り、共感してくれるコミュニティなんかも自然発生的に生まれていくんだと思います。

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そして、まだテンプレ的な型が決まりきっていない場所だからこそ、一生涯の同志や仲間と新たに出会える誤配や偶然の出会いが生まれる余地がある。

過去に何度も、実際にそんな体験をしてきたからこそ、僕はいま本当に強い実感をもってそう思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。