先日、NewsPicksで配信されていた東浩紀さんと落合陽一さんの対談の中で、

東さんが「再生数を伸ばそうとすると、正気を失う。なぜ配信しようと思ったのか、そんな原初の欲望を手放さないことが大事」というようなことを語っていて、その言葉がずっと頭に残っています。

これは本当に、その通りだなと。

もちろん、再生数を伸ばすこと自体が悪いわけではない。せっかく何かを発信するのであれば、できるだけ多くの人に届いてほしい。そう思うこと自体は、まったく自然なことだと思います。

でも、その「届けたい」という気持ちが、いつのまにか「どうすれば伸びるか」にすり替わっていくわけですよね。

発信のための技術を磨いているつもりが、いつのまにか発信する理由そのものを手放してしまう。

それが、東さんの言う「正気を失う」ということなのだと思います。

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この点、最近のXやInstagramなど従来のSNSやYoutubeを眺めていると、この「正気を失う」という感覚が、以前よりもずっと強くなっているように感じます。

しかも、それらはアルゴリズムによって、より反応されやすい形に最適化されていく。

酒やギャンブルがそうであるように、それ自体が完全な悪だと言いたいわけではないけれど、でも、人間の脳や欲望に対して、あまりにも強く作用しすぎてしまうものがある。

僕らは誰もが、無防備でいればすぐ簡単に、そのSNS上のドーパミンカルチャーに飲み込まれてしまいます。

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そして、そのときにいちばん怖いのは、「仕方ない」という言葉だと思うのです。

「アルゴリズムがそうなっているんだから、仕方ない。みんなやっているんだから、仕方ない」

そうやって、自分でも本当は間違っていると思っている過激な言葉や、過度な煽りを少しずつ実行してしまう。

最初から悪人として、それを選んでいるわけではないのだと思います。むしろ、自分の中にある違和感には気づいている。

でも、その違和感を「仕方ない」という言葉によって見て見ぬふりをしてしまう。

この構造が、非常に怖いなと。

そしてこれは、いつの時代にも起こりうる倫理の問題なのだと思います。

現代の僕らは、もちろん戦場に立たされているわけではないかもしれないけれど、でも、別のかたちで、戦時中と同じような倫理の前に立たされてしまっている。

自分は何に従うのか、どこで立ち止まるのか。そして、どうすれば正気を保ち続けることができるのか。

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そう考えると、いま新たにSubstackの周辺で起きていることも、単なる新しいプラットフォームへの移動ではないように見えてきます。

AIとアルゴリズムが効きすぎる場所から、AIが主役になりにくい場所への大移動、そんな民族大移動なのではないかと思います。

ここで大事なのは、AIが存在しない場所へ逃げる、ということではないです。

もう、AIがまったく存在しない場所なんて、存在しない。だから、問題は「AIを使うか使わないか」ではありません。

AIが主役になってしまうのか。それとも、あくまでAIは「人間の手仕事を支える道具」であり続けるのか。

その違いのほうが、ずっと重要だなあと。

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Substackがおもしろいのは、少なくともそこに「この人の生身の文章を読み続ける」という関係性や信頼感を構築しようという動きが今あるからだと思います。

タイムラインに流れてくる投稿と、メールボックスに届く文章はやっぱり少し違いますからね。

誰かの家のポストに届く「お便り」のように、そこにはちゃんと「生身の人間」という宛先がある。

フィード上で偶然目に入る投稿ではなく、届けると決めた文章、自分で受け取ると決めた文章が相互に届き合う。

この違いは小さいようで、かなり大きいと思います。

少なくとも従来のSNSに比べると、AIとアルゴリズムがいちばん大事なものを奪いにくい場所ではあるように感じます。

なぜなら、そこで問われるのは、瞬間的に反応されるかどうかだけではないからです。

この人の文章を、これからも読み続けたいと思えるどうか。読み続けて欲しいと願う敬意がそこにあるかどうか。

そういう信頼の積み重ねによる関係性のほうが、中心にある。

ただインプレッションが伸びて、金が儲かればいいというわけでは決してないはずです。

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そして、ここまで書いてみて思うのは、これっていうのは令和の「民藝運動」のようなものだなと思います。

柳宗悦が始めた当時の民藝運動も、近代化や工業化によって均質で便利で安価なものが大量に流通するようになったとき、それまで当たり前のように使われていた日常の器や道具の中に、再び美を見出したわけです。

毎日使う茶碗や、地域に根づいた工芸品。

それらは、名のある芸術家がつくった作品ではないかもしれない。

美術館に飾られるためにつくられたものでもなく、無名の職人たちが、日々の暮らしのために、繰り返しつくってきたもの。

でも、生活の中で使われるためにあるからこそ、そこに逆説的に「美」が宿る。そこに「用の美」を見出したわけですよね。

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僕は、いま言葉(オンラインコンテンツ含む)の世界で、それと同じようなことが起きているのだと思います。

生成AIによって、整ったプラスチックみたいな文章はいくらでも生み出せるようになった。100均のように、それさえあれば生活は事足りるわけです。

それっぽい文章も、うまい文章も、反応されやすい文章も、ほとんど無限に生成できるようになりました。

でも、その結果として、逆説的にこれまで当たり前すぎて見えていなかったものが、急に輪郭を持ちはじめているんだろうなあと。

それは、著名な作家ではない一般庶民たちの「手仕事」と呼べるようなもの。

そういうものは、これまで大した価値のあるものだとは思われていなかったのかもしれない。

少なくとも、立派な文学作品や、プロの書き手による原稿とは別のものとして扱われてきた。

でも、AIが文章を量産するようになったことで、そこにあった価値が遡行的に発見され始めていることが、いま最高におもしろい現象だなあと。

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それは、その人の生活の中から、必要に応じて生まれてきた言葉であること。誰かに届けるために、少し迷いながら、それでも丁寧に紡がれた言葉であること。

それらは実際にAIが登場する前から、ずっとそこにあった。でも、あまりにもそれが当たり前すぎて、僕らはその価値をちゃんと見ていなかったし、観ることもできなかった。

工業化がやっと、手仕事の「用の美」を発見させたように、生成AIがやっと、そんな生活者の生身の手仕事による「言葉の用の美」を発見させたのだと思います。

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ただし、ここで言いたいのは、「人間が書いた文章だったら何でも尊い」という話ではありません。

それだとまた、しょうもない人間賛美になってしまう。

大事なのは、人間であることそのものではなく、その言葉がどこに接地しているのか。

以前、記号接地問題について考えたときに、「りんご」という言葉を使えることと、実際にりんごを手に取ったことがあることは違う、という話を書いたことがあります。


りんごの重さや香り、歯ざわり。子どものころに食べた記憶、誰かが剥いてくれた時間。

そういうものに接続されている「りんご」という言葉と、単に記号として処理されている「りんご」という単語は、同じ言葉のように見えて、やはりまったく違うものなんだ、と。

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それと同じように、文章もまた、ただ人間が書いていればいいわけではない。

その言葉が、その人の生活や暮らしに紐づいていること。

その人が身を置いている地域や環境、コミュニティに紐づいていること。先人たちから受け取ってきた文化や記憶に対して、ちゃんと敬意を持った形において紐づいていること。

つまり、AIが本当の意味でつくることができないのは、文章そのものではなくて、その文章が、一体どこかに根を下ろしているという、その事実(リアル)のほうです。

だから、AI時代に価値を持つのは、単に「人間が書いた言葉」ではない。

生活や暮らしや環境に、接地した言葉。あるいは、人間関係や、歴史や文化に接地した言葉、そういう言葉が接地している状況のほうなのだと思います。

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AIとアルゴリズムが効きすぎるSNSは、人間の本能に直接接地するドーパミン的な言葉をどんどん強くしていってしまう。

一方で、Substackのような場所では、生活や関係や文化に接地した言葉が、ゆっくり読まれていく可能性がある。

この違いは、思っている以上に大きいはずです。

民藝における「用の美」は、ただ見た目が美しいということではなく、生活の中で実際に使われ、暮らしの中に存在していること。

結果として、人々の手に馴染んでいる。日々の反復の中で自然と形づくられていったわけですよね。

そういうものの中にこそ、美が宿る。言い換えると「関係性」の中に美が宿る。

現実の人々の営みと接地しているときに、美が宿るということを、柳宗悦は繰り返し僕らに伝えてくれているんだと思います。

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言葉もきっとまったく同じです。

バズるための文章でもないし、文学賞を取るための文章でもない。

でも、その人の日々の暮らしの中で使われ、読み手との関係の中で繰り返し読まれて、手に馴染んでいく言葉がある。

その人が何度も考え、何度も迷い、何度も書き直しながら、それでも誰かに届けようとしてきた言葉がある。

そこに、たしかに「用の美」が宿るのだと僕は思うのです。

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そしてSubstackは、そのような言葉がもう一度見出される場所になりうる。

有名な作家になるための場所というより、生活者が自分の手仕事を続けるための言葉を紡ぐ場所として。

そんなふうに捉えると、Substackの可能性は単なる「有料メルマガ」や「クリエイターエコノミー」という言葉だけでは、まったく捉えきれないものに思えてきます。

言葉を、ただの情報やコンテンツとしてではなく、暮らしにおける本当の意味での道具として、もう一度取り戻すための場所、そう言っても過言ではないのかもしれません。

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もちろん、ここで反AI純潔主義のようなものに向かいたいわけではありません。

AIを使ったらダメだとか、人間だけで書かなければ意味がないとか、そういう話をしたいわけではない。

むしろ、AIはこれから、かなり優れた道具になっていくはずです。そういう意味では、AIは手仕事を壊すものではなく、人間の手仕事を支える道具にもなりうる。

でも、そこで大事なのは、最後に何を手放さないか、だと思います。

ここで最初の東浩紀さんの言葉にもしっかりとつながってくる。

自分はなんのために書くのか。誰に向けて書いているのか。

その判断までAIやアルゴリズムに渡してしまったとき、人は完全に正気を失ってしまう。

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だから僕は、これからも誰かが書いた宛先のある、少し不器用な文章を読みたい。

それぞれの暮らしや生活の匂いが残っている文章。

AIがどれだけ文章をうまく書けるようになっても、僕らが読み続けたいのは、たぶんそういう文章なのだと思います。

生成AIによって、人間の文章の価値が下がったのではない。

むしろ、これまで当たり前すぎて見えていなかった、作家ではない普通の人間たちの手仕事のような言葉が、遡行的に価値として立ち上がってきた。

Substackがもしおもしろい場所になるのだとしたら、それは最新のプラットフォームだからではなく、そういう古い手仕事の言葉を、もう一度受け取れる場所になるからなのだと思います。

それっていうのは、僕らがこのWasei Salon内で、過去5年〜10年ぐらいずっとやり続けてきたことでもあると思います。

だからWasei Salonも含めて、今のこの流れは、令和の民藝運動のひとつなのだと思っているというお話でした。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんも何かしらの参考となっていたら幸いです。