「正しさとは、目的によって異なる」とは、一般的によく語られることです。
だから、多くのひとは、目の前の相手の考えや結論がすぐに理解できないときは、相手の「目的」が一体何なのか、それを今一度理解しようと努めることが多いかと思います。
でも、たとえ相手の目的がしっかりと理解することができたとしても「なぜ、その選択肢(手段)を選んだのか」が最後までわからないこともある。
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たとえば、町づくりの協議の場において「この地が栄えて、多くの人が集まってくること」という目的を相手が思い描いているとします。
その目的を互いに共有してもなお、「あれ、なぜあなたはその結論に至るの…?」と、目的と手段の組み合わせが非合理的だと思えるような選択肢を選んでいるように感じられる場合もある。
では、このズレは一体どこから生じてくるのでしょうか。
思うに、主観的な「正しさ」とは「目的」だけでは、定るものではないのだと思います。
それに加えて、「時制」と「対象」も明確にしなければ一点には定まらないもの。
ここでいう「時制」とは、たとえば目的達成(及びその継続期間)が「今この瞬間なのか、1年後なのか、10年後なのか、100年後なのか、1000年後なのか」の違いのようなこと。
また「対象」とは、その目的が見据えている「栄える」対象範囲がその土地の人間に限るのか、周囲の地域まで含むのか、人間に限らず動植物や死者の霊なんかも含むのか、などなど。
ものすごく簡易的な例えなので、ちょっと極端ではありますが、それぐらい同じ目的でも「時制」と「対象」が異なることで、真逆の結論に至ることもあります。
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そして、さらにここで注意が必要なことは、「目的」というのは、理性やロジックで考えるひとが多いため、本人自身も自覚的であるけれど、「時制」と「対象」とは、本人が無自覚の場合も非常に多いです。
それらは「集合的無意識」のようなものに強く影響を受けて定まっていることもあるわけです。
具体的には、土地の文化や風土、長年の歴史などがそのひとの思考形成過程に強く影響を与えていて、本人は世間の一般常識に照らし合わせて「目的」を定めているつもりであっても、そのひとが無意識に描いている(染み付いてしまっている)範囲が極端に広かったり、狭かったりする。
だから、上述した3つの要素を受け取る側、つまり私自身のほうで積極的に様々な方向に振ってみて、意図的にズラしてみる必要がある。相手がカメラの被写体だとしたら、マニュアルフォーカスでピントを合わせるようなイメージで。
そうすると、「なるほど、だからか!」と思えるような焦点が合う点が必ず存在しています。
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そのうち、経験を重ねるとオートフォーカスのようにこの点を合わせられるようになってくる。
それが他者と対話する際の思考の「型」のようなものだと思うし、時には「教養」や「倫理観」というような言い方をされるようなものなのかもしれなません。
なんだか、そんなことを考える今日このごろです。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
2021/11/26 17:04